2012年4月16日月曜日

超えてる男

 先日、遠足があった。高校生になっても遠足があるっていうのは、なんだかいい。
 各クラスそれぞれ自由に行き先を決める。山であったり、川であったり、ダムであったり、公園であったり・・・。一年生から三年生までクラスごとに、その日をのんびりと過ごすのだ。
 私は今、2年生の全クラスに日本語を教えているので、せっかくだから2年生のどこかのクラスに混ぜてもらい参加しようと思っていた。
 山がいいかなぁ、それとも川にしようかなどと思いながらリストを眺めていたら、カン先生に声をかけられた。このブログでも以前「カン・サングウという男①・②」で紹介した、あのカン先生である。

「明日、9時に城の後門に来いよ!」
「え?」
「遅れるなよ。」
「はあ。」
「後門の方だぞ、間違えるなよ。」

 カン先生は3年生の担任である。
 昨年度の半年間、このクラスに日本語を教えたのだが、気のいいメンバーがそろっている。勉強を真剣にする者は極端に少ないクラスだが・・・。
 私はせっかくだから今教えている2年生と交流を持ちたいと思っていたのだが・・・、カン先生はもう歩き去ってしまっている。やれやれ、いつものことながら突然だなぁ。

 カン先生は生徒に対してはとても愛情深い。だが叱るときはびしっと叱る。だから生徒からも一目置かれ、信頼されている。
 職員会議では必ず意見を言う。相手が管理職だろうと容赦はしない。おかしいと思ったことはとことん追及する。絶対に譲らない。だから管理職達は明らかにカン先生のことを煙たく思っている。側で見ていてそれが伝わってくる。だが、カン先生は平気だ。

 校長先生が全職員に何かを伝える。
 みんな下を向く。ため息をつく。隣同士、眉間に皺を寄せながらコソコソと話をし出す。目をつむり、こめかみを押さえる先生もいる。あきらめ顔で首をふる先生もいる。
 そんな時、カン先生は、「チャンカンマンニョ(ちょっと待って下さい)!」と言い立ち上がる。
 私は職員会議で、何度カン先生の「チャンカンマンニョ!」を聞いたことだろう。
 管理職達の顔が一斉に曇る。警戒心が目に宿る。
 カン先生はいつも管理職が発言するときはしっかりとメモをとっている。そして矛盾点を追及する。
 校長先生が目を見開き、鋭い視線を送る。だが、カン先生は一歩もひかない。メモを片手に強い口調で発言する。校長先生の唇がわずかに震え出す。カン先生はお構いなしだ。
・・・燃える男ここにありという感じなのだ。


 朝9時、城の後門に到着する。
 空は暗く今にも降り出しそうだったが、私は自転車で出かけた。
 もう生徒達は集まっている。みんな私服でおしゃれをしてきている。このクラスには女子も二人おり、いつもどおりメイクをばっちりときめてきていた。
 私も私服でラフな格好で参加した。だが靴だけはトレッキングシューズを履いていった。私は普段から街に出るときはトレッキングシューズを履く。特に理由はない。なんとなく落ち着くのだ。

 カン先生は、遅刻。それなのに、その後遅れてきた男子4人組に近寄り、「こらっ!おまえら遅いぞ!」と言いながら耳をつまみ捻り上げていた。いつもやんちゃな4人組は悲鳴を上げて耳をおさえていた。

 城の中をみんなで散歩。
 日本語の放課後授業をとっているテミョン君もいるので、いろいろと話しながら歩く。
 広場では、片足になりタックルし合って相手を倒すゲームをしたり、騎馬戦をしたり・・・。
 カン先生に「やってみろ!」と言われしぶしぶ生徒達は始めるのだが、みんなやりだすと異常に盛り上がる。どの生徒も笑顔である。
 楽しんでいるみんなの姿を、体調の少し悪い者や女子達と一緒にベンチに座って眺める。見ているこちらもみんな笑顔である。散歩中のおばさんもベンチに座って微笑んでいる。なんとものどかである。
 カン先生は生徒の中に入り声を掛け、盛り上げている。嬉しそうである。この人は本当に生徒が大好きなのだ。
 教員と言うよりも、ガキ大将だ。盛り上げ方をわきまえている。授業中いつも元気のないものまで笑顔で跳び回っている。生徒達もカン先生のことが大好きなのだ。


 ポツリポツリと雨が降り出す。カン先生が生徒達に声をかけ、突然すたすたと歩き出す。みんなが後について歩く。
 テミョン君に「雨降ってきたね。これからどうするの?」と聞くと「映画館に行くみたいです。」と言う。え?遠足なのに映画?そんなのいいのかよ~。まぁカン先生の中ではOKなんだろうけど・・・。
 城は街の中心部にあるので、映画館はここから歩いて15分くらいである。
 雨の中を映画館へと歩く。
 生徒と映画を観るのも悪くないなと思い、テミョン君に「何を観るの?」と聞くと「『タイタン』を観ます。先生、一緒に観ましょう。チケットはあそこで買います。」と教えてくれた。
 みんな自分のお金でチケットを買っている。
 私も買いに行こうとすると、いきなりカン先生に肩をつかまれた。「チケットはいらない。」と言う。そうか、自分の分をもう買っておいてくれたのか。

 生徒達が全員映画館に入ると、「来い。」とカン先生は言い、歩き出す。映画館を出て、雨の中を街に出る。また城まで戻る。そしてカン先生の車に乗せられる。
 おいおい生徒ほっといていいのかよ?今日は遠足だろ?まずいんじゃないのかなぁ~。まぁ生徒はみんな映画館の中だから、その間に食事でもするつもりなんだろうけど・・・まぁいいか。任せよう、カン先生に。

 雨の中を車は走る。まだ走る。まだまだ走る?車は街を出る。え?いったいどこの食堂へ行くんだ?高速道路に入る。え?どこに行くの?カン先生は前方を見つめアクセルを踏む。
 雨が降る。車は走り続ける。それから一時間、ずっと高速から降りない。
 もう引き返さないと生徒の映画が終わる時間に間に合わなくなってしまう。私は少し心配になってきた。

「カン先生、どこに行くんですか?」
「サクラ。」
「え?どこに・・・」
「サクラを見に行くんだ。」

 それからしばらく高速を走り、国道に降りる。
 出発して2時間ほどたったころ、生徒からカン先生に連絡があった。・・・そりゃそうだろう。生徒はみんなこれからどうしたらいいかわからないはずだ。
「おう、終わったか。おう、おう、じゃあ家に帰れ。おう、おう、家に帰れ。じゃあな。」そう言ってカン先生は電話をきる。そして微笑む。
 え?勝手に解散?遠足は?生徒達はきっとあっけにとられているだろう。
・・・いや、あの生徒達はカン先生に慣れている。3年間ずっと担任だからな。カン先生の行動パターンを熟知している。こんなことは、いつものことなのだ。
 あっけにとられているのは、きっと私一人なのだろう。

 そこに桜のトンネルがあった。長い長い純白のトンネルであった。雨に濡れた桜の花びらが光っていた。
 数え切れないほどの桜の木が一本の道を両側から包み込んでいる。どこまでも白いトンネルは続いている。私は息をのんだ。これほど長い桜のトンネルを見たのは初めてだ。
 今自分がどこにいるのか分からなくなった。桜が私を包んでくる。桜の胎内に入ったようだ。


 カン先生が「マッコリを飲め。」というので飲んだ。
 「朝鮮人参定食を食べるぞ。」というので食べた。
 「寺まで歩くぞ。」というので歩いた。
 「仏画を観るぞ。」というので観た。
 「山に入るぞ。」・・・え?「山に入るぞ。」・・・え?私は耳を疑った。今から山に?・・・雨も降っているし・・・山に入るのは嫌だ。早く帰って濡れた体を温めたい。
 カン先生は行ってしまう。私は遅れないよう必死に追いかける。だが追いつけない。カン先生はものすごい勢いで登っていってしまう。全然見えなくなってしまう。
 息がきれる。足が重い。それでも登る。足下だけ見て登る。体が熱くなる。
 俺は何で韓国の山をこんな雨の中登っているんだ?俺は何をしているんだ?
 苦しい。ジャケットを脱ぐ。一歩一歩登る。もう何も考えられなくなる。右足を出したら、左足を出す。それだけだ。

 「苦しいか?」突然カン先生の声がする。
 ふと上を見ると、巨大な岩の上でタバコをふかしながら微笑んでいる。
 「ケンチャナヨ(大丈夫です)。」と答える。本当は全然大丈夫ではないのだが・・・。
 岩を登り、カン先生の横に座る。谷底がはるか彼方に見える。冷たい風が気持ちいい。雨もやんでいる。
 もうここで充分だ。ここで寝転んでこの風景をずっと眺めていたい・・・。

 「行くぞ。」カン先生は立ち上がる。そしてまた、獣のようにどんどん登っていってしまう。必死に追いかけるが、すぐにまた見えなくなる。だが道は一本道だ。迷うことはない。
 あの人はマッコリも大量に飲んだし、タバコを何本も吸っている。それなのに何故、あんなにすごい勢いで山道を駆け上がることができるんだ?何故なんだ?何者?けだもの?それとも山の神?
 ところで俺は何でこんなに必死になって登っているんだ。どこに行こうとしているんだ。
 今日は遠足のはずじゃないか。城で生徒と楽しく過ごし、笑顔で帰るはずじゃなかったのか?
 また体が熱くなる。それからまたさらに一時間くらい登った。
 もう言葉も思考も消えた。足を交互に出すだけだ。それが生きている証。
 道の分かれ目でカン先生がタバコを吸いながら待っていてくれた。
 笑っている。

「聞こえるだろう。」
「え?」
「水の音、聞こえるだろう?」

本当だ。水の音が聞こえる。何故こんな山奥に・・・。しばらく歩くと、突然巨大な滝が現れた。 


 私はカン先生と二人でずっとその滝を見つめ続けた。
 水が落ちる。轟音に体が包まれる。カン先生が満足そうに微笑む。

 どうやらここが今日の折り返し地点のようだ。折り返し地点・・・。
 生徒達のことがふと頭をよぎった。私とカン先生がこんな山奥にある滝を今こうやって見つめていようとは、きっと夢にも思わないだろう。

 なんだか笑えてくる。カン先生も笑う。

 私はその場にしゃがみ込み、水の落ちる音に身を委ねていた。

2012年4月9日月曜日

もう一つの宇宙

 今まで教員生活を送ってきて、様々な生徒に出会ってきた。そしてその中にはかなり個性の強い生徒がいて、そんな生徒と出会った時は人間というものの果てしない深淵を覗いたような気持ちになる。

 韓国に来てそんな生徒の一人に出会った。電気科の3年生のT君である。昨年度までは私は彼に日本語を教えていた。
 T君はとても明るい性格でいつも「初めまして、今何時ですか?」「初めまして、今日は何月何日ですか?」「初めまして、クレヨンしんちゃん好きですか?」と、私に声を掛けてくる。何度会ってもいつも「初めまして」を使ってくるので、そのことを指摘したのだが、それでも必ずいつも「初めまして」と挨拶してくる。

 こっちに来て一番初めに私に声をかけてくれたのが、T君だった。
 彼は電気科の中で入学時に最も成績の良かった者達が集められているクラスに在籍している。だが授業には教科書を持ってこない。そして平仮名も読めないのである。
 私が授業中に彼をあてると、いつも全く答えることができない。そして周りの生徒達は「バカ、バカ、バカ。」「先生、彼はバカです。」と言ってはやし立てる。だが、T君はいっこうに気にする様子も無く、へらへらと笑っている。
 彼が何故成績優秀者が集まるこのクラスに在籍しているかは謎なのだが、私はその謎を謎のままにしている。


 ある時授業中、彼はおでこの上に消しゴムをのせずっと上を向いていた。私はもしかしてT君はいじめにあっているのではないかと思い、心配し注意を払っていたときだったので、すぐかけよりその消しゴムをとり机の上に戻した。そして周りの生徒を見回すとみんなニヤニヤしている。T君に視線を戻すとまた消しゴムをおでこに乗せている。周りの生徒達は「先生、ほっときましょう。」という雰囲気で、こちらを見つめる。
 わからない。周りから命じられ、やらされているのか、それとも自発的にやっているのか・・・。
 他の先生にそのことを話すと、「彼は変わっているからね。」と言って笑うだけである。

 ある日、学校の近くの道を歩いていて、T君に出会った。
 彼は制服姿で道の端に立っていた。彼は何をしていたか?・・・私は見てはいけないものを見てしまった気がした。気づかないふりをして、そのまま通り過ぎようと思ったが、足が勝手に止まってしまう。そしてT君を見入ってしまった。
 彼は電柱と話をしていたのだ。とても熱心に・・・。

 彼は何事かを電柱に語りかけ、微笑みながら手で撫でたりしている。そうかと思うと急に厳しい口調になり、電柱をしかりつける。そして電柱を何度も蹴る。
 私は呆気にとられ、しばらく呆然と眺めてしまっていた。通り過ぎる人々も驚いてT君を見つめている。明らかに蔑んだ目で冷たく笑いながら通り過ぎる人もいる。

 私はなんだかいたたまれなくなってきて、思わずT君に声をかけた。T君は振り向き私と目が合うと笑顔になり、「初めまして。元気ですか?」と日本語で言ってくる。私は韓国語で「元気だよ。T君の家はこの近くなの?」と聞くと、彼は急に空を見上げ、ククククと笑った。私も空を見上げる。真っ青な空にはいくつかの雲が流れている。T君は、今度は足下を見つめる。そして何事か奇声を発すると、背を丸め体を揺らして独特なリズムの歩き方をしながら行ってしまった。
 私はずっと彼の揺れる背中を見つめていた。

 
   私が韓国に赴任して間もない頃・・・。
 まだ残暑が厳しくその日は教室にはクーラーがかかっていた。
 ちょうどその時はキム先生が文法の説明をしていて、私は机間巡視しながら生徒がメモをきちんととっているか確認をしていた。
 案の定、T君だけが何もしていない。教科書もノートも出ていない。筆記用具もない。そして天井を見つめている。
「T君、あれを書いて。教科書は?」と声をかけたが彼は笑顔で「オプソヨ(ありません)。」と言って首を振る。
「ノートは?」
「オプソヨ。」
「ペンはあるの?」
「オプソヨ。」
 周りの生徒もキム先生も「先生、ほっときましょうよ。」という顔をして、首を振る。

 T君はまた視線を天井に戻す。何故か真剣な眼差しである。
 私は彼が見つめる天井を見てみた。そこには教室用の少し大きめなクーラーが取り付けられている。彼はそれをじっと見つめているのだ。瞬きもしない。送風口から出る風を見ようとしているのか、・・・わからない。
 他の生徒達は黒板に書かれた文法事項をノートや教科書に書き込んでいる。T君はじっとクーラーの送風口を眺めている。そして次の瞬間、微笑んだのだ。嬉しそうに笑う。声はたてずに。そしてすぐにまた真剣な眼差しに戻る。

 私はT君の側に近寄り、しゃがんでT君の目線になってクーラーを見つめてみた。T君はいったい何を見ているのか興味を持ったのだ。
 T君はある一点を見つめている。視線はその一点にあり、微動だにしていないように思える。私はその「点」を探してみた。だが、何も見当たらない。天井に何があるというのだ。
 私がT君と一緒になって天井を見つめているのに気づいたキム先生や生徒達から笑いがおこる。
 「先生、彼はバカです。」「バカ、バカ、バカ。」とまたはやし立てる。「バカ」という日本語の発音がみんなやたらといい。いつもT君に言っているに違いない。

 みんなが声を上げて笑う。
 笑えばいい。今、私はT君の見つめる「点」を探すのに集中しているのだ。今、私がやるべきことはT君と一つになることなのだ。授業中だろうと関係ない。「バカ」で結構。だがこの「点」だけは今見極めたい。今しかそのチャンスがないように思えた。

 彼はどんな世界を見つめて生きているのだろう。いったい彼は今何をそんなに真剣に見つめているのだ。

 私はT君と一緒になってクーラーを見つめ続けた。

 
 そしてとうとうその「点」を私は見つけた。T君は確かにそれを見つめていた。

 それは、クーラーの送風口の端についている水滴であったのだ。
 一滴しかないためにかなり注意しないと分からない。
 その水滴が送風口からの風に揺れている。今にも吹き飛ばされそうである。だが、落ちそうで落ちない。

 それはまるで、孤独なクライマーが強風の中、必死になって氷壁にしがみついているようにも見える。
 そのクライマーは、そこまでの想像を絶する過酷な登攀のために疲労困憊になっている。もう氷壁にハーケンを打ち込む力は彼には残っていない。だが、その強靱な精神が彼をそこに踏みとどまらせている。
 嵐はやみそうもない。
 「ゆっくり休んだらいいじゃないか。眠ればいい。」と深い漆黒の谷底は誘いをかける。
 休みたいと彼は思う。眠りたいと彼は思う。だがこの場所で休むことは死を意味する。眠れば永遠に目覚めることはない。手を離せば死が待っている。
 嵐がやむのが先か、彼が氷壁から落ちるのが先か・・・。

 何度も水滴は落ちそうになる。だがぎりぎりのところで踏みとどまる。それをT君は見つめているのだ。
 私も思わず見入ってしまった。・・・なんだかものすごい世界がそこにはあった。

 私がT君の肩に手を置き、水滴を指さし「見つけたぞ。」と目で語りかけると、T君は私を見返しニヤリと笑った。


 文化祭の時にカラオケ大会があった。
 全校生徒が体育館に集まり、我こそはと思う者が名乗りをあげて熱唱するのだ。5人の者が舞台に上がる。なんとその中にT君がいた。
 T君は最後に歌うこになった。どの生徒もなるほどそれなりに歌がうまい。みんなちょっと照れていたが、全校生徒の前でスッポットライトを浴びて歌うのだ。たいした度胸である。
 私はT君の番が近づくにつれ、そわそわしてきた。そして自分が歌うわけでもないのに緊張し、胸が高鳴った。

 T君は舞台のそでで、じっと体育館の天井を見つめたまま立ち尽くしていた。
 T君の番がまわってきた。司会者役の生徒がT君を紹介する。拍手が起こる。T君がマイクをつかむ。上を向いたままだ。イントロが流れる。どこかで聞いた曲だ。古い外国のロックだ。だが曲名は分からない。彼はおもむろに歌い始める。

 T君はすごかった。圧倒的であった。
 英語の歌詞は完全に彼の頭の中に入っていた。彼は目をつむりシャウトする。そしてジャンプする。腕を振り回す。舞台を走り回る。
 会場からどよめきがおこる。体育館中がはじける。生徒達が声をかけ手拍子を送る。先生達も立ち上がる。矢沢永吉や忌野清志郎にも負けていない。

 彼は腰を振る。独特のステップで駆け抜ける。観客を指さす。シャウト、そしてジャンプ。・・・最後は片膝をつきマイクを観客に向けてフィニッシュ。

 体育館中から怒濤のような拍手が湧き起こった。体育館が揺れているのを感じた。
 恥ずかしながら、私は涙を拭いながら拍手を送っていた。
 審査はその後、会場からの拍手の多さで行われた。T君は圧倒的な大差で優勝。
 割れんばかりの拍手の渦の中、校長先生から商品と花束をもらい、ジャンプして舞台から降り立った。


 「初めまして。」・・・彼は今でも私に会うとそう声をかけてくる。
 だが、3年生になってちょっと変わったことがある。それは、いつも私のことをフルネームで「~ケン」と呼び捨てにしていたのだが、「~ケン先生」と言うようになったことだ。誰かから注意でも受けたのだろうか?

「おーう。~ケン先生、初めまして。今何時ですか?」
「今?えーと1時47分。もうすぐ授業だよ。」私は必ず時計を見て正確な時間を伝えることにしている。
「あーそうですか。ありがとうございます。」彼はそう日本語で答えると、独特なステップを踏み、私から滑らかに離れていった。

 彼の揺れる背中が、以前よりちょっとばかり大きく見えた。




2012年4月2日月曜日

弓と物理とサックスと

 先日、開校50周年記念ということで休みになり、チョ先生に連れられて韓国の弓の大会を見に行ってきた。
 チョ先生は物理の先生で50歳くらいだと思う。今年転勤して来られたのだが、よく私に声を掛けてくれる。韓国語、日本語、英語をごちゃ混ぜにしながらなんとか意思の疎通もできる。

 チョ先生は多趣味で、その中でも弓とサックスには力を入れているようだ。
 「趣味は何なの?」と聞かれ、困ってしまう。韓国に来てたくさんの人からこの質問を受けた。
 私は特に趣味というものを持っていない。よく日本でも初対面の人に趣味を聞かれるのだが、適当にごまかしている。その時々で「旅行」「キャンプ」「読書」などと答えている。
 よく「趣味が無いと寂しい。」など言う人がいるが、不思議に思う。私は全く寂しくはないのだが・・・。というか何故そんなにも趣味を持とうとするのかが分からない。


 チョ先生が「休みの日は何をしている?」と聞いてくる。
「部屋にいますけど。」
「部屋で何をしているの?」・・・特に何をしているわけでもなくボーッとしているのだが、そう言うわけにもいかない。
「本を読んだり、テレビを観たりしています。」
「外には出ないのか?」
「出ますよ。」
「どこへ?」
「市場とか。」
「市場?行って何をするの?」
「歩いています。」
「歩く?何も買わないの?」
「買いますよ。」
「何を?」
「肉とか野菜とか果物とか。」
「それが楽しいの?」・・・別に特に楽しくもないし、かといってつまらなくもない。ただのんびりと異国のいろいろな市場を歩くのが昔から好きなだけなのだが・・・、そんなことを説明する語学力などない。
「楽しいですよ。」
「ふーん。」
チョ先生は納得がいかないような顔をしながら不思議そうにこっちを見つめる。

 多趣味のチョ先生にとっては「のんびりして何もしない。」というのはありえないことなのだと思う。時間は何かをするためにあり、限られた時間の中でどれだけ何かができるか、それが重要なのだというのがチョ先生の考えのようだ。
 この考えは素敵だ。とても前向きだと思うし、生きる力のようなものを感じる。そういう人生をおくっている人を羨ましくも思う。だが同時に、異国の海岸で砂浜に座ってずっと波を眺めていたり、夕陽を浴びながらビールを飲んでいるような人も、私はものすごく羨ましく思うのだ。
 
 たぶん子供の頃の毎日が影響しているのだと思う。
 友達といろいろと遊ぶのももちろん大好きだったのだが、それ以上に一人で森の中で過ごすのが好きだった。
 家の裏にある森に一人で入り、鳥や虫やハ虫類や両生類を観たり捕まえたりするのが好きだった。木に登ったり、ふかふかの枯れ草の中に寝転んで空を眺めたりするのも好きだった。
 たくさんの生き物を自宅に持ち帰り飼っていた。さすがに蛇の子供を持ち帰ったときは、母親は悲鳴をあげていたが・・・。
 森の中には自分しか知らない大切な場所がいくつもあり、友達にも誰にも教えなかった。   
 森の中に一人でいるときが本当に心地よかった。


 以前アジアを10ヶ月ほどぶらぶらとし、久しぶりに帰国して大学の文学部の前を歩いていると、B君に声をかけられた。B君はかつて語学が同じクラスで、何度か酒を一緒に飲んだこともあるのだが、ちょっと私の苦手なタイプの人物である。彼は秀才で成績も良く、私は授業にはほとんど出ず、留年したり休学したりしてふらふらしていた。

「久しぶりだね。どこに行っていたの?」
「いろいろと。」
「いろいろってどこ?」
「インドとかネパールとか、いろいろ・・・。」
「そこで何をしていたの?」
「え?」
「だからそこで何をしていたの?」
「特に何も・・・。」
「何もしていないってそんなことはないだろ?」
「いや、ホントに・・・」
「じゃあ何のために行ったの?」
「何のため?」
「そう、何のために行ったの?」
「うーん、なんとなくね。」
「なんとなく行って、何もしていないなら意味がないじゃないか。」
「意味がない?」
「そこに行った意味があるの?」
「意味って言われてもなぁ。」
「お金を使って、時間も使って、大学にも来なくなって・・・それで何もしてない。それじゃあ意味ないじゃないか。」
「でも行ってみていろいろなこと感じたよ。それに行かなけりゃわからなかったろうなぁってこともあったよ。」
「それどういうこと?そこに行ってない僕にはわからないってこと?」
「いやいや、そういうことじゃないよ。まぁ自分は行って良かったなぁってことだよ。それだけのことさ。」
「じゃあなんで帰ってきたの?」
「え?」
「そこが良かったんだろ?」
「まあ。」
「そんなに自分にとって良い場所なら、なんで帰ってきたの?自分にとってプラスになる場所だったんでしょ?それならそこに居続けるべきなんじゃないの?帰ってきたってことはそれだけの場所でしかなかったってことでしょ?たいして重要な場所ではなかったってことでしょ?」・・・私はいつもB君と話をすると疲れてしまうのだ。
 なんで帰ってきたかと言われてもなぁ。そりゃ帰ってくるだろう。金がなくなったんだから・・・。
「それじゃあぼくは忙しいから。もう話すこともないかもね。これでお別れかもね。」
突然B君はそう言い、向こうへ歩いていってしまう。
 いったい彼は私に何を伝えたかったのだろう。・・・疲れる男だ。

 もちろんその後もB君とはたびたび大学の近くで会い、そのたびに「今、何をしているの?」「そんなことでいいの?」「よく平気でいられるなぁ。」などと声をかけられた。
 その後、彼はあるTV局に内定をもらったと聞いた。他にもたくさんのマスコミ関係を受験して、全て受かったようなことを言っていた。
 私の方はというと、就職活動自体を途中であきらめて、大学へも行かず、ぶらぶらと街を彷徨っていた。喫茶店に入って音楽を聴いたり本を読んだり、公園で缶コーヒーを飲みながらぼんやりと木々を眺めたり、映画館に一日中入り浸ったりしていた。


 ある日、大学の図書館の横の坂道を歩いているとき、またB君に出会ってしまった。
「やぁ久しぶり、今、何をしているの?」
「特に何も・・・。」
「卒論は?」
「あぁ卒論か、少しずつ準備してるよ。」・・・私は嘘をついた。準備など全くしていなかった。ただB君との会話を早く終えたいと思ってしまったのだ・・・。
「え?少しずつ?遅いだろう。もうかなりできあがってないと。大丈夫?間に合うの?卒業できなくなるよ。遅いよ~。」
「そうかな。」
「そうだよ、あいかわらずだね。」
「まぁなんとかなるさ。」
「就職は?」
「いや、決まってない。」
「へえ~そりゃ大変だ。そう言えば教職課程の授業とっていたでしょ。教員になるの?」・・・何故B君はこんなにも自分のことを知っているのだろう?
「いや、教員を目指すかどうかはわからないけど。」
「今、教員にはそう簡単になれないんだよ。それ、分かってる?」
「そうみたいだね。」
「教員になるなら君にはもっと経験を積んでほしいな。きちんとまず就職して、社会を知った上で教員になってほしい。まず会社員になってみることだよ。社会を知らないで教員になって、よく人にものを教えられるなぁと思うよ。いろんな経験を積んだ方がいいよ。ああその前に卒業しなくちゃね。それじゃあ卒論頑張って。時間ないよ、本当に頑張らないと。じゃあ僕は忙しいからこれで。」
そう言い残し、B君は行ってしまった。・・・疲れる男だ。

 私はB君のことが苦手ではあるが、嫌いではない。彼は言うだけのことはやっていたし、行動力もあった。私のようにぼんやりとしている時間など彼にはありえないのだ。彼にはいつもやるべきことがあったのだと思う。

 彼はなんとなく森に入ることなどない。何かのために森に入るのだ。明確な目的がなければ、彼には森など意味がないものなのだ。

 自分にとって苦手なタイプの人間、関わりたくない人間っていうのは、時に自分に刺激を与えてくれるものだ。その日から私は、大学の図書館の地下の書庫に朝から晩までこもって、卒業論文に取り組んだ。
 B君は正しかった。時間がない。食事をするとき以外は机から離れなかった。そしてなんとか書き上げた。締め切り当日にぎりぎり提出できた。
 あれからB君には会っていない。きっと彼のことだからTV局で「何のために?意味ないじゃないか。時間ないよ!」と叫びながら活躍していることと思う。
 結局私は、B君のいうように「きちんとまず就職」はできなかった。アルバイトをしたり、しなかったりしながら、それからさらに5年ほど東京を彷徨っていた。
 初めて教壇に立った時、私は29歳になっていた。


 チョ先生に連れられていった弓の大会は、のどかなものであった。平日の大会ということもあるのだろうか、出場者は年配の方がほとんどであった。みんな弓道場の二階で食事をし、ビールや焼酎を飲んだ後、弓を射ている。それでも遙か彼方にある的に矢が当たるのだからたいしたものだ。チョ先生もなかなかの腕前である。

 帰りの車でチョ先生が言う。
「いつか日本に行ってみたいな。」
「来てください。案内しますよ。」
「今度、桜を見に行こうか。」
「いいですね。」
「その時、家族を紹介するよ。」
「楽しみにしています。」
 弓と物理とサックスを愛する男が微笑んでいる。

 私は車が今どこを走っているのかわからない。いつもそうだ。声をかけられ車に乗せられる。そしてどこかへ連れていかれる。着いた場所で、酒や食事をご馳走になる。

 異国の人に全てを委ねることの心地よさ。森の中の日だまりで、枯れ草の上に寝転びながら空を眺めていた時とどこか似ている。

 車はスピードをあげて見知らぬ農道を走り抜ける。窓の外は春だ。