2012年6月18日月曜日

オオカミの夜

 酔ったKさんの後についていく。
 テニスコートほどの広さがあるプレハブ小屋に入る。室内は暗い。裸電球が一つ灯っている。その仄かな灯りの下に座卓がある。鍋が煮え立っている。鍋の横にはたくさんのキノコや野菜、そしてスライスされた牛肉が山盛り。
 私はそこに座るように言われる。Kさん、そしてKさんの奥さん、もう一人70代くらいの男が座る。

 カン先生の友人であるKさんに会ったのは一時間ほど前。カン先生は私を一人残し山小屋に帰ってしまった。
 私はとても気まずかった。私は教師という職業に就いていながら、とても人見知りが激しいのだ。一人の人と親しく話せるようになるまでには長い時間を要する。だから初対面の時の私の印象は悪い。生徒にも私と初めて会った時の印象を聞くと「怖い」「嫌な感じ」「関わりたくなかった」などと言われる。卒業生で今では一緒に飲むメンバーからもそう言われて笑われた。
 すぐ人と打ち解けて仲良くなれる人が本当に羨ましい。私はとても時間がかかる。だからこの3人と楽しく食事ができるとは思えなかった。


 グラスに焼酎とビールで爆弾酒が作られる。出会ったばかりの人々と乾杯。
 Kさんの奥さんはテニスプレーヤーでモデルもやっていたらしい。とても背が高く、体格がいい。テニスでは代表として日本にも何度か試合に行ったことがあるそうである。奥さんが肉と野菜とキノコの煮込みをよそってくれる。
 スープを一口すする。美味い。どんなダシを使っているのかわからないが、こくがあり口の中に旨味がさっと広がる。こんなスープ初めてだ。

 Kさんが私のことをもう一人の男に紹介する。私は頭を下げて挨拶した。その男の目はとても鋭かった。70代くらいに思われるのでKさんの父親か、あるいは兄か、よくわからない。Kさんは酔っ払っていて説明があやふやなのだ。
 その男は私が日本人と分かった瞬間、目がよりいっそう鋭くなった。そして「日本人・・・。」とつぶやいた。
 私は本当に居心地が悪かった。Kさんや奥さんに「たくさん食べて。」と言われても、自分から鍋に手をつけることはしなかった。


 私はその男が自分のことを歓迎していないことを肌で感じた。男は爆弾酒を飲み続けている。そして突然話し出す。
「何故、日本人がここにいる?」
 Kさんが説明する。私が工業高校で日本語を教えていること、カン先生と親しいことを伝えてくれている。男がこちらをじっと見つめる。
「もっとたくさん食べろ。何故食べない?もっと飲め。」
私は頷きスープに口をつける。男は鋭い視線を送りながら語り出す。
「オオサカは知っているか?」
「はい、わかります。」
「ヤクザは?」
「わかりますけど。」
「俺はオオサカでヤクザとビジネスをしていた。」
「・・・・。」

 私はどう答えていいか分からなかった。その男はかなり酔っている。冗談を言っているのか。それとも私を脅そうとしているのか。私は曖昧な笑みを浮かべ、爆弾酒を飲み干した。すぐに新しいものがグラスに満たされる。
Kさんが笑いながら言う。
「オオサカでヤクザと仕事してたのは本当。・・・その話はもうやめたら。」
Kさんがその男に言う。
 男はグラスを握りしめながら私に鋭い視線を送る。
「日本はひどい国だ。悪い国だ。」
私はうつむく。


 今まで韓国に来て2度ほどこういうことがあった。
 いつも行く食堂で朝飯を食べているとき、店にあるテレビのニュースで日本と中国と韓国の領土についての問題が取り上げられていた。私は下を向いたまま食事をとり続けていた。突然一人の男が大声で言った。
「いつもそうだ。中国と日本はひどい国だ。中国人と日本人は信用できない。」
 それまで談笑していた店中の男達が静まりかえった。私はうつむいて食事を続けた。
 そこにいる全員が私が日本人であることは知っている。
 この店はゴミ清掃員のアジョッシ達が朝集まる店なのだが、私はそこに交じって毎朝朝食をとっている。私の食生活を心配したキム先生がここの食堂のおばさんに頼んでくれたのだ。それから10ヶ月の間、私はここに毎朝通っている。

 私は日本がひどい国と言われたことよりも、おじさん達のせっかくの楽しい食事の時間が、自分がいるために気まずい雰囲気になってしまっていることに心を痛めた。
 ふと顔をあげるとみんなが私の方を見ないようにしている。みんなが私に気を使っているのが分かる。食堂のおばさんは「日本人は信用できない。」と言った男を睨み付けている。いつも笑顔でとても優しいおばさんなのに・・・私はそこにいるのが居たたまれなくなった。だが黙って食べ続けた。食べ終わり
「ごちそうさまでした。」
とおばさんに言い、お金を払う。おばさんは泣きそうな表情をしていた。
「ありがとうね。行ってらっしゃい。」
それでも最後はいつも通り笑顔で送ってくれた。


 そんなことが今まで2度ほどあった。「ほど」と記したのは、実は細かいことではいろいろある。
 この派遣が決まった時から私はある程度覚悟していた。そして自分で決めていた。どんなことを言われても、たとえ屈辱的なことを言われてもきちんとその言葉に耳を傾けようと。

 ただその男は酔っている。どんどんとエスカレートしていく。
「日本はひどい国だ。悪い国だ。」
「日本人は本当にひどい。」
「日本人は韓国の歴史を学んでいるのか。」
「歴史を学べ。そうしたら分かる。どれだけひどい国か。」
 私は初対面のこの男に韓国語でまくしたてられる。だが、私の語学力ではここに記したことぐらいしか分からない。

 男の目は真っ赤になっている。酔ったオオカミのように私を睨み付けてくる。Kさんが言葉をはさむ。
「もうやめようよ。昔の話。古い話。」
そして男を指さして笑いながら言う。
「古い男、古い男。」
 だが私はKさんの目を見たとき、Kさんがこの男にものすごく気を使っているのが分かった。そしてその目に怯えの光も見えたのだ。Kさんの奥さんもうつむき野菜やキノコを鍋に入れている。この男はいったい何者なのだろう。Kさんも奥さんもこの男を止めることはできないのだ。
 二人はまいったなぁという表情をして突然席を立った。私は驚いた。この状況で私と男だけにする気かよ・・・。Kさん達は本当に出て行ってしまう。私は鍋をはさみ男と二人きりになった。


 日本人がいかにひどいことをしてきたかということを男は語ってくる。私は男の目をみつめながらじっとその言葉を聞いた。Kさんと奥さんは帰ってこない。カン先生に電話をかけようかとも思った。だがそれすらもできない。
 男は私のグラスを指さし「飲め。」という。私は一気に飲み干す。また、酒がそそがれる。男も飲み干す。私は男のグラスにも酒をそそぐ。

 男は急に黙りこくり私をじっと見つめてくる。
 この男がどんな人生を歩んできたかは分からない。だが、深い皺と鋭い目、日に焼けた顔。なんだか修羅場をくぐりぬけてきた人のようにも思える。
 私は朝鮮半島の山の中で、この男とこうやって鍋をはさんで酒を酌み交わしている不思議さに包まれていた。相手の名前さえ分からないのだ。男は静かに言う。
「もっと食べろ。」
「はい。」
「どうした。美味くないのか?」
「いえ、とてもおいしいです。」
 私は牛肉とキノコと野菜の煮込みスープをもりもりと食べる。美味い。果てしなく美味い。


 男は私が食べるのを微笑みながら見つめている。そして嬉しそうに笑う。
 男は酒を一気に飲み干すと「俺は寝る。」と言い立ち上がる。そしてふらつきながら出て行った。

 私は一人になった。一人っきりになった。一人だ。
 今夜、これからどうなるんだろう・・・。
 私はここがどこかさえもわからないのだ。

 虫の音だけがかすかに聞こえてくる。窓の外には漆黒の闇が広がっていた。



2012年6月9日土曜日

むむむのむ

 日曜朝8時、カン先生より「ウォンジィ」まで来いとの電話があった。
 チリ山の入り口の街ウォンジィに到着するといつもの黒い車ではなく、白い車に乗せられる。運転席に一人の男がいた。一目見て驚いた。カン先生と全く同じ顔をしている。ただ眼鏡をかけている。カン先生の弟さんだ。造船所の技術者ということだ。カン先生と同じく、目に鋭い光と、温かみが同居している。

 谷沿いの道を車は走る。
 山のふもとで車から降り、ザックを背負い山道に歩みを進める。かつて山岳信仰の聖地とされたチリ山の森の中を歩む。
 先頭がカン先生、次に私、そしてカン先生の弟さん。どうやらこの並びは最初から決められていたようで、私のペースに二人が合わせてくれているのがわかる。今日のカン先生はいつもと違いゆったりと歩みを進める。


 広葉樹の森を抜けると竹林が続く。そしてまた広葉樹の森の中へ。初めにアップダウンのきつい場所があったが、後はなだらかな登り下りが続く。
 木漏れ日の中を三人は黙ったまま進む。山の気を全身に浴びながら修験者のように歩き続ける。時々他の登山客とすれちがう。その時はお互い挨拶を交わす。

 森の空気は密度が違う。植物たちが時間をかけてその密度を作っている。その中を歩み続けるとだんだんと何も考えなくなっていく。考えることをしなくなっていくと自分の体の輪郭がはっきりしてくるように思う。
 深い森の中に渓流がある。その平らな岩場で昼食。
 渓流の水をコッヘルに汲みバーナーで沸かす。昼食は白米、キムチ、サンチェなどの何種類かの野菜、そしてインスタントラーメン。渓流の水で冷やしたマッコリで乾杯。
 木々の葉が陽光を浴びながら揺れている。聞こえるのは葉の擦れ合う音と水の流れる音、それだけ。


 山歩きを終え、カン先生の弟さんと別れる。カン先生の車に乗り換え川沿いの道を走る。ペンションが何件か並んでいるところに車は止まる。
 宿泊客がみんなで食事をとるための巨大なプレハブがある。その厨房へとカン先生は入っていく。背の高い二人の男女が酒を飲んでいる。挨拶を交わす。カン先生の幼なじみとのことだ。女性は席をはずし、三人で酒を飲む。カン先生の幼なじみのKさんは、もうかなり酔っている。
 グラスに焼酎を注ぎ、次にビールを注ぐ。いわゆる爆弾酒だ。それをあおり、我々二人にも勧めてくる。干し魚をつまみにしながらぐいぐいとあおる。
 Kさんは声が大きく、笑ってばかりでとても陽気である。私が日本人ということにはお構いなしで、ゼスチャーを交えながら大声で話してくる。
 私は酒は好きなのだが強くはないので、爆弾酒を何杯か飲むうちにふらふらになる。

 「明日は仏陀の誕生日だ。寺に行こう。」
赤い目をしたKさんが立ち上がる。カン先生と私も立ち上がり、この建物の裏手の山の中腹にある寺に向かう。
 酔っているのですぐに息がきれる。

 寺にはお笑いタレントの山田花子に似た尼さんがいた。とにかく果てしなく優しい顔をしている。声も温かい。肌は真っ白でつるつると光っている。そしてものすごく小さい。年齢はわからない。50代か、60代か。
 私が日本人だと言うことがわかると、日本語の学習帳のようなものを持ってきていろいろと聞いてくる。「値段が高い」と「背が高い」の「高い」は何故同じ言葉を使うのか、などと聞いてくる。

 チジミを焼いてくれて、スイカを切ってくれて、お茶を出してくれた。
 この尼さんと話していると、心が落ち着く。とても気持ちいい。韓国語も驚くほどわかりやすい。私のレベルを考えてくれているのだと思う。こんなに韓国語が分かったのは初めてのことだ。というよりも「言葉」で話している気がしない。私はなんだか懐かしい思いが湧いてきていた。
 時々Kさんが口を挟んでくる。邪魔だ。世界が壊れる。Kさんは俗っ気満々の人物なのだ。私はこの山田花子似の尼さんと二人きりで話していたいのだ。尼さんが微笑みながら言う。


「ここにスイカがありますね。」スイカを一切れつまむ。
「はい。」私もつまむ。
「どうぞ、食べて下さい。おいしいですよ。」
「はい。」私はスイカを口に含む。冷えていて甘い果汁が口いっぱいに広がる。
尼さんは食べずにまた皿に戻す。
「もともとはまーるい一つのスイカでした。」
「はい。そうですね。」
「私もあなたもこの一切れのスイカのようなものです。」
私は尼さんの目を見つめる。尼さんは優しく微笑んでいる。

Kさんが突然割り込んでくる。
「明日は仏陀の誕生日。まぁ俺も仏陀、あんたも仏陀、そういうことですよね。」
声がでかい。酒臭い。だがそう言った後Kさんは突然謝りだした。
「すみません。すみません。すみません。」
尼さんに向かって頭を下げる。声がでかいんだよ。何なんだ、この人は。尼さんは微笑んでいる。
「そうですね。ふふふふふ。みんな仏陀、それでいいんじゃないですか。」
Kさんは、ほれ見ろというように自慢げに私を見る。何なんだ、この人は。尼さんは楽しそうに微笑む。


「ところで心はどこにありますか?」尼さんは私を見つめてくる。
「え?」
「ここですか?」と言いながら、尼さんは指で頭をさす。
「それともここですか?」今度は胸に手をあてる。小さくて真っ白な手だ。
私は首を振る。
「わかりません。どこにあるんですか?」
「さぁ?」
「え?」
「さぁ、どこにあるんでしょうねぇ。」そう言って、尼さんは静かに微笑む。
そして近くにあった紙の切れ端に、ペンで「無」と記した。
「え?」私は分からなくなった。
無、無、無、無、無?尼さんは微笑んだままだ。私は尼さんを見つめ次の言葉を待った。
「たくさん食べなさい。」そう言うと、チジミののった皿を私に差し出す。
 それが最後の言葉だった。尼さんはさっきから何も口をつけない。お茶にも手を触れていなかった。

ふと気がつくと、カン先生がいない。そういえばKさんとお堂に入った時には、カン先生はいなかった。携帯を確認するとカン先生からの着信がある。カン先生に電話をかける。

「カン先生、今どこですか?」
「おまえは、どこにいる?」カン先生はかなり酔っているようだ。
「まだ、寺にいます。先生はどこにいるんですか。」
「俺か、俺はもう帰ったよ。」
「え?どこにですか?」
「山の家へ。」
「え?じゃあ自分はどうすれば?」
カン先生が何かをしゃべり続ける。聞き取れない。携帯をKさんに渡す。Kさんは笑いながら大声でカン先生と話す。
「あいつは飲み過ぎてもう動けないってさ。まあいいや、一緒に飯を食おう。」

 Kさんは笑う。私は唖然とした。
 どういうことだ。何もわからない外国人を友人のところにおいたまま普通帰るかよ。ありえないよ。俺はどうなるんだ。今日このKさんと過ごすのか?さっき会ったばかりのこの人と、どうやって過ごせばいいんだ。Kさんを見つめる。
「飯のことなら心配ない。妻が用意している。あれは俺の二人目の女房だ。セカンドワイフ、セカンドワイフ。あいつはテニスプレーヤーだった。モデルもやってた。本当だぞ。ハハハハ。飯のことなら心配ない。セカンドワイフ。ッフフフフ。テニスとモデル。ッフフフフ。」
このべろんべろんに酔っ払ったKさんと、どうしろというのだ。私はカン先生を恨めしく思った。


 山田花子似の小柄な尼さんが見送ってくれた。酔っ払ってふらついているKさんと困惑顔の私を見つめ、微笑んでいる。

 石の階段を降りる。前を歩くKさんは、ゆらゆらと揺れながら降りていく。
 ふと、私の脳裏に尼さんの書いた「無」という文字が浮かび上がる。
 振り返ると尼さんは微笑んだままこちらを見つめている。

 私と目が合うと、頷いて静かに頭を下げた。
 小さな尼さんを巨大な木々が包み込んでいた。