酔ったKさんの後についていく。
テニスコートほどの広さがあるプレハブ小屋に入る。室内は暗い。裸電球が一つ灯っている。その仄かな灯りの下に座卓がある。鍋が煮え立っている。鍋の横にはたくさんのキノコや野菜、そしてスライスされた牛肉が山盛り。
私はそこに座るように言われる。Kさん、そしてKさんの奥さん、もう一人70代くらいの男が座る。
カン先生の友人であるKさんに会ったのは一時間ほど前。カン先生は私を一人残し山小屋に帰ってしまった。
私はとても気まずかった。私は教師という職業に就いていながら、とても人見知りが激しいのだ。一人の人と親しく話せるようになるまでには長い時間を要する。だから初対面の時の私の印象は悪い。生徒にも私と初めて会った時の印象を聞くと「怖い」「嫌な感じ」「関わりたくなかった」などと言われる。卒業生で今では一緒に飲むメンバーからもそう言われて笑われた。
すぐ人と打ち解けて仲良くなれる人が本当に羨ましい。私はとても時間がかかる。だからこの3人と楽しく食事ができるとは思えなかった。
グラスに焼酎とビールで爆弾酒が作られる。出会ったばかりの人々と乾杯。
Kさんの奥さんはテニスプレーヤーでモデルもやっていたらしい。とても背が高く、体格がいい。テニスでは代表として日本にも何度か試合に行ったことがあるそうである。奥さんが肉と野菜とキノコの煮込みをよそってくれる。
スープを一口すする。美味い。どんなダシを使っているのかわからないが、こくがあり口の中に旨味がさっと広がる。こんなスープ初めてだ。
Kさんが私のことをもう一人の男に紹介する。私は頭を下げて挨拶した。その男の目はとても鋭かった。70代くらいに思われるのでKさんの父親か、あるいは兄か、よくわからない。Kさんは酔っ払っていて説明があやふやなのだ。
その男は私が日本人と分かった瞬間、目がよりいっそう鋭くなった。そして「日本人・・・。」とつぶやいた。
私は本当に居心地が悪かった。Kさんや奥さんに「たくさん食べて。」と言われても、自分から鍋に手をつけることはしなかった。
私はその男が自分のことを歓迎していないことを肌で感じた。男は爆弾酒を飲み続けている。そして突然話し出す。
「何故、日本人がここにいる?」
Kさんが説明する。私が工業高校で日本語を教えていること、カン先生と親しいことを伝えてくれている。男がこちらをじっと見つめる。
「もっとたくさん食べろ。何故食べない?もっと飲め。」
私は頷きスープに口をつける。男は鋭い視線を送りながら語り出す。
「オオサカは知っているか?」
「はい、わかります。」
「ヤクザは?」
「わかりますけど。」
「俺はオオサカでヤクザとビジネスをしていた。」
「・・・・。」
私はどう答えていいか分からなかった。その男はかなり酔っている。冗談を言っているのか。それとも私を脅そうとしているのか。私は曖昧な笑みを浮かべ、爆弾酒を飲み干した。すぐに新しいものがグラスに満たされる。
Kさんが笑いながら言う。
「オオサカでヤクザと仕事してたのは本当。・・・その話はもうやめたら。」
Kさんがその男に言う。
男はグラスを握りしめながら私に鋭い視線を送る。
「日本はひどい国だ。悪い国だ。」
私はうつむく。
今まで韓国に来て2度ほどこういうことがあった。
いつも行く食堂で朝飯を食べているとき、店にあるテレビのニュースで日本と中国と韓国の領土についての問題が取り上げられていた。私は下を向いたまま食事をとり続けていた。突然一人の男が大声で言った。
「いつもそうだ。中国と日本はひどい国だ。中国人と日本人は信用できない。」
それまで談笑していた店中の男達が静まりかえった。私はうつむいて食事を続けた。
そこにいる全員が私が日本人であることは知っている。
この店はゴミ清掃員のアジョッシ達が朝集まる店なのだが、私はそこに交じって毎朝朝食をとっている。私の食生活を心配したキム先生がここの食堂のおばさんに頼んでくれたのだ。それから10ヶ月の間、私はここに毎朝通っている。
私は日本がひどい国と言われたことよりも、おじさん達のせっかくの楽しい食事の時間が、自分がいるために気まずい雰囲気になってしまっていることに心を痛めた。
ふと顔をあげるとみんなが私の方を見ないようにしている。みんなが私に気を使っているのが分かる。食堂のおばさんは「日本人は信用できない。」と言った男を睨み付けている。いつも笑顔でとても優しいおばさんなのに・・・私はそこにいるのが居たたまれなくなった。だが黙って食べ続けた。食べ終わり
「ごちそうさまでした。」
とおばさんに言い、お金を払う。おばさんは泣きそうな表情をしていた。
「ありがとうね。行ってらっしゃい。」
それでも最後はいつも通り笑顔で送ってくれた。
そんなことが今まで2度ほどあった。「ほど」と記したのは、実は細かいことではいろいろある。
この派遣が決まった時から私はある程度覚悟していた。そして自分で決めていた。どんなことを言われても、たとえ屈辱的なことを言われてもきちんとその言葉に耳を傾けようと。
ただその男は酔っている。どんどんとエスカレートしていく。
「日本はひどい国だ。悪い国だ。」
「日本人は本当にひどい。」
「日本人は韓国の歴史を学んでいるのか。」
「歴史を学べ。そうしたら分かる。どれだけひどい国か。」
私は初対面のこの男に韓国語でまくしたてられる。だが、私の語学力ではここに記したことぐらいしか分からない。
男の目は真っ赤になっている。酔ったオオカミのように私を睨み付けてくる。Kさんが言葉をはさむ。
「もうやめようよ。昔の話。古い話。」
そして男を指さして笑いながら言う。
「古い男、古い男。」
だが私はKさんの目を見たとき、Kさんがこの男にものすごく気を使っているのが分かった。そしてその目に怯えの光も見えたのだ。Kさんの奥さんもうつむき野菜やキノコを鍋に入れている。この男はいったい何者なのだろう。Kさんも奥さんもこの男を止めることはできないのだ。
二人はまいったなぁという表情をして突然席を立った。私は驚いた。この状況で私と男だけにする気かよ・・・。Kさん達は本当に出て行ってしまう。私は鍋をはさみ男と二人きりになった。
日本人がいかにひどいことをしてきたかということを男は語ってくる。私は男の目をみつめながらじっとその言葉を聞いた。Kさんと奥さんは帰ってこない。カン先生に電話をかけようかとも思った。だがそれすらもできない。
男は私のグラスを指さし「飲め。」という。私は一気に飲み干す。また、酒がそそがれる。男も飲み干す。私は男のグラスにも酒をそそぐ。
男は急に黙りこくり私をじっと見つめてくる。
この男がどんな人生を歩んできたかは分からない。だが、深い皺と鋭い目、日に焼けた顔。なんだか修羅場をくぐりぬけてきた人のようにも思える。
私は朝鮮半島の山の中で、この男とこうやって鍋をはさんで酒を酌み交わしている不思議さに包まれていた。相手の名前さえ分からないのだ。男は静かに言う。
「もっと食べろ。」
「はい。」
「どうした。美味くないのか?」
「いえ、とてもおいしいです。」
私は牛肉とキノコと野菜の煮込みスープをもりもりと食べる。美味い。果てしなく美味い。
男は私が食べるのを微笑みながら見つめている。そして嬉しそうに笑う。
男は酒を一気に飲み干すと「俺は寝る。」と言い立ち上がる。そしてふらつきながら出て行った。
私は一人になった。一人っきりになった。一人だ。
今夜、これからどうなるんだろう・・・。
私はここがどこかさえもわからないのだ。
虫の音だけがかすかに聞こえてくる。窓の外には漆黒の闇が広がっていた。
テニスコートほどの広さがあるプレハブ小屋に入る。室内は暗い。裸電球が一つ灯っている。その仄かな灯りの下に座卓がある。鍋が煮え立っている。鍋の横にはたくさんのキノコや野菜、そしてスライスされた牛肉が山盛り。
私はそこに座るように言われる。Kさん、そしてKさんの奥さん、もう一人70代くらいの男が座る。
カン先生の友人であるKさんに会ったのは一時間ほど前。カン先生は私を一人残し山小屋に帰ってしまった。
私はとても気まずかった。私は教師という職業に就いていながら、とても人見知りが激しいのだ。一人の人と親しく話せるようになるまでには長い時間を要する。だから初対面の時の私の印象は悪い。生徒にも私と初めて会った時の印象を聞くと「怖い」「嫌な感じ」「関わりたくなかった」などと言われる。卒業生で今では一緒に飲むメンバーからもそう言われて笑われた。
すぐ人と打ち解けて仲良くなれる人が本当に羨ましい。私はとても時間がかかる。だからこの3人と楽しく食事ができるとは思えなかった。
グラスに焼酎とビールで爆弾酒が作られる。出会ったばかりの人々と乾杯。
Kさんの奥さんはテニスプレーヤーでモデルもやっていたらしい。とても背が高く、体格がいい。テニスでは代表として日本にも何度か試合に行ったことがあるそうである。奥さんが肉と野菜とキノコの煮込みをよそってくれる。
スープを一口すする。美味い。どんなダシを使っているのかわからないが、こくがあり口の中に旨味がさっと広がる。こんなスープ初めてだ。
Kさんが私のことをもう一人の男に紹介する。私は頭を下げて挨拶した。その男の目はとても鋭かった。70代くらいに思われるのでKさんの父親か、あるいは兄か、よくわからない。Kさんは酔っ払っていて説明があやふやなのだ。
その男は私が日本人と分かった瞬間、目がよりいっそう鋭くなった。そして「日本人・・・。」とつぶやいた。
私は本当に居心地が悪かった。Kさんや奥さんに「たくさん食べて。」と言われても、自分から鍋に手をつけることはしなかった。
私はその男が自分のことを歓迎していないことを肌で感じた。男は爆弾酒を飲み続けている。そして突然話し出す。
「何故、日本人がここにいる?」
Kさんが説明する。私が工業高校で日本語を教えていること、カン先生と親しいことを伝えてくれている。男がこちらをじっと見つめる。
「もっとたくさん食べろ。何故食べない?もっと飲め。」
私は頷きスープに口をつける。男は鋭い視線を送りながら語り出す。
「オオサカは知っているか?」
「はい、わかります。」
「ヤクザは?」
「わかりますけど。」
「俺はオオサカでヤクザとビジネスをしていた。」
「・・・・。」
私はどう答えていいか分からなかった。その男はかなり酔っている。冗談を言っているのか。それとも私を脅そうとしているのか。私は曖昧な笑みを浮かべ、爆弾酒を飲み干した。すぐに新しいものがグラスに満たされる。
Kさんが笑いながら言う。
「オオサカでヤクザと仕事してたのは本当。・・・その話はもうやめたら。」
Kさんがその男に言う。
男はグラスを握りしめながら私に鋭い視線を送る。
「日本はひどい国だ。悪い国だ。」
私はうつむく。
今まで韓国に来て2度ほどこういうことがあった。
いつも行く食堂で朝飯を食べているとき、店にあるテレビのニュースで日本と中国と韓国の領土についての問題が取り上げられていた。私は下を向いたまま食事をとり続けていた。突然一人の男が大声で言った。
「いつもそうだ。中国と日本はひどい国だ。中国人と日本人は信用できない。」
それまで談笑していた店中の男達が静まりかえった。私はうつむいて食事を続けた。
そこにいる全員が私が日本人であることは知っている。
この店はゴミ清掃員のアジョッシ達が朝集まる店なのだが、私はそこに交じって毎朝朝食をとっている。私の食生活を心配したキム先生がここの食堂のおばさんに頼んでくれたのだ。それから10ヶ月の間、私はここに毎朝通っている。
私は日本がひどい国と言われたことよりも、おじさん達のせっかくの楽しい食事の時間が、自分がいるために気まずい雰囲気になってしまっていることに心を痛めた。
ふと顔をあげるとみんなが私の方を見ないようにしている。みんなが私に気を使っているのが分かる。食堂のおばさんは「日本人は信用できない。」と言った男を睨み付けている。いつも笑顔でとても優しいおばさんなのに・・・私はそこにいるのが居たたまれなくなった。だが黙って食べ続けた。食べ終わり
「ごちそうさまでした。」
とおばさんに言い、お金を払う。おばさんは泣きそうな表情をしていた。
「ありがとうね。行ってらっしゃい。」
それでも最後はいつも通り笑顔で送ってくれた。
そんなことが今まで2度ほどあった。「ほど」と記したのは、実は細かいことではいろいろある。
この派遣が決まった時から私はある程度覚悟していた。そして自分で決めていた。どんなことを言われても、たとえ屈辱的なことを言われてもきちんとその言葉に耳を傾けようと。
ただその男は酔っている。どんどんとエスカレートしていく。
「日本はひどい国だ。悪い国だ。」
「日本人は本当にひどい。」
「日本人は韓国の歴史を学んでいるのか。」
「歴史を学べ。そうしたら分かる。どれだけひどい国か。」
私は初対面のこの男に韓国語でまくしたてられる。だが、私の語学力ではここに記したことぐらいしか分からない。
男の目は真っ赤になっている。酔ったオオカミのように私を睨み付けてくる。Kさんが言葉をはさむ。
「もうやめようよ。昔の話。古い話。」
そして男を指さして笑いながら言う。
「古い男、古い男。」
だが私はKさんの目を見たとき、Kさんがこの男にものすごく気を使っているのが分かった。そしてその目に怯えの光も見えたのだ。Kさんの奥さんもうつむき野菜やキノコを鍋に入れている。この男はいったい何者なのだろう。Kさんも奥さんもこの男を止めることはできないのだ。
二人はまいったなぁという表情をして突然席を立った。私は驚いた。この状況で私と男だけにする気かよ・・・。Kさん達は本当に出て行ってしまう。私は鍋をはさみ男と二人きりになった。
日本人がいかにひどいことをしてきたかということを男は語ってくる。私は男の目をみつめながらじっとその言葉を聞いた。Kさんと奥さんは帰ってこない。カン先生に電話をかけようかとも思った。だがそれすらもできない。
男は私のグラスを指さし「飲め。」という。私は一気に飲み干す。また、酒がそそがれる。男も飲み干す。私は男のグラスにも酒をそそぐ。
男は急に黙りこくり私をじっと見つめてくる。
この男がどんな人生を歩んできたかは分からない。だが、深い皺と鋭い目、日に焼けた顔。なんだか修羅場をくぐりぬけてきた人のようにも思える。
私は朝鮮半島の山の中で、この男とこうやって鍋をはさんで酒を酌み交わしている不思議さに包まれていた。相手の名前さえ分からないのだ。男は静かに言う。
「もっと食べろ。」
「はい。」
「どうした。美味くないのか?」
「いえ、とてもおいしいです。」
私は牛肉とキノコと野菜の煮込みスープをもりもりと食べる。美味い。果てしなく美味い。
男は私が食べるのを微笑みながら見つめている。そして嬉しそうに笑う。
男は酒を一気に飲み干すと「俺は寝る。」と言い立ち上がる。そしてふらつきながら出て行った。
私は一人になった。一人っきりになった。一人だ。
今夜、これからどうなるんだろう・・・。
私はここがどこかさえもわからないのだ。
虫の音だけがかすかに聞こえてくる。窓の外には漆黒の闇が広がっていた。