2012年6月9日土曜日

むむむのむ

 日曜朝8時、カン先生より「ウォンジィ」まで来いとの電話があった。
 チリ山の入り口の街ウォンジィに到着するといつもの黒い車ではなく、白い車に乗せられる。運転席に一人の男がいた。一目見て驚いた。カン先生と全く同じ顔をしている。ただ眼鏡をかけている。カン先生の弟さんだ。造船所の技術者ということだ。カン先生と同じく、目に鋭い光と、温かみが同居している。

 谷沿いの道を車は走る。
 山のふもとで車から降り、ザックを背負い山道に歩みを進める。かつて山岳信仰の聖地とされたチリ山の森の中を歩む。
 先頭がカン先生、次に私、そしてカン先生の弟さん。どうやらこの並びは最初から決められていたようで、私のペースに二人が合わせてくれているのがわかる。今日のカン先生はいつもと違いゆったりと歩みを進める。


 広葉樹の森を抜けると竹林が続く。そしてまた広葉樹の森の中へ。初めにアップダウンのきつい場所があったが、後はなだらかな登り下りが続く。
 木漏れ日の中を三人は黙ったまま進む。山の気を全身に浴びながら修験者のように歩き続ける。時々他の登山客とすれちがう。その時はお互い挨拶を交わす。

 森の空気は密度が違う。植物たちが時間をかけてその密度を作っている。その中を歩み続けるとだんだんと何も考えなくなっていく。考えることをしなくなっていくと自分の体の輪郭がはっきりしてくるように思う。
 深い森の中に渓流がある。その平らな岩場で昼食。
 渓流の水をコッヘルに汲みバーナーで沸かす。昼食は白米、キムチ、サンチェなどの何種類かの野菜、そしてインスタントラーメン。渓流の水で冷やしたマッコリで乾杯。
 木々の葉が陽光を浴びながら揺れている。聞こえるのは葉の擦れ合う音と水の流れる音、それだけ。


 山歩きを終え、カン先生の弟さんと別れる。カン先生の車に乗り換え川沿いの道を走る。ペンションが何件か並んでいるところに車は止まる。
 宿泊客がみんなで食事をとるための巨大なプレハブがある。その厨房へとカン先生は入っていく。背の高い二人の男女が酒を飲んでいる。挨拶を交わす。カン先生の幼なじみとのことだ。女性は席をはずし、三人で酒を飲む。カン先生の幼なじみのKさんは、もうかなり酔っている。
 グラスに焼酎を注ぎ、次にビールを注ぐ。いわゆる爆弾酒だ。それをあおり、我々二人にも勧めてくる。干し魚をつまみにしながらぐいぐいとあおる。
 Kさんは声が大きく、笑ってばかりでとても陽気である。私が日本人ということにはお構いなしで、ゼスチャーを交えながら大声で話してくる。
 私は酒は好きなのだが強くはないので、爆弾酒を何杯か飲むうちにふらふらになる。

 「明日は仏陀の誕生日だ。寺に行こう。」
赤い目をしたKさんが立ち上がる。カン先生と私も立ち上がり、この建物の裏手の山の中腹にある寺に向かう。
 酔っているのですぐに息がきれる。

 寺にはお笑いタレントの山田花子に似た尼さんがいた。とにかく果てしなく優しい顔をしている。声も温かい。肌は真っ白でつるつると光っている。そしてものすごく小さい。年齢はわからない。50代か、60代か。
 私が日本人だと言うことがわかると、日本語の学習帳のようなものを持ってきていろいろと聞いてくる。「値段が高い」と「背が高い」の「高い」は何故同じ言葉を使うのか、などと聞いてくる。

 チジミを焼いてくれて、スイカを切ってくれて、お茶を出してくれた。
 この尼さんと話していると、心が落ち着く。とても気持ちいい。韓国語も驚くほどわかりやすい。私のレベルを考えてくれているのだと思う。こんなに韓国語が分かったのは初めてのことだ。というよりも「言葉」で話している気がしない。私はなんだか懐かしい思いが湧いてきていた。
 時々Kさんが口を挟んでくる。邪魔だ。世界が壊れる。Kさんは俗っ気満々の人物なのだ。私はこの山田花子似の尼さんと二人きりで話していたいのだ。尼さんが微笑みながら言う。


「ここにスイカがありますね。」スイカを一切れつまむ。
「はい。」私もつまむ。
「どうぞ、食べて下さい。おいしいですよ。」
「はい。」私はスイカを口に含む。冷えていて甘い果汁が口いっぱいに広がる。
尼さんは食べずにまた皿に戻す。
「もともとはまーるい一つのスイカでした。」
「はい。そうですね。」
「私もあなたもこの一切れのスイカのようなものです。」
私は尼さんの目を見つめる。尼さんは優しく微笑んでいる。

Kさんが突然割り込んでくる。
「明日は仏陀の誕生日。まぁ俺も仏陀、あんたも仏陀、そういうことですよね。」
声がでかい。酒臭い。だがそう言った後Kさんは突然謝りだした。
「すみません。すみません。すみません。」
尼さんに向かって頭を下げる。声がでかいんだよ。何なんだ、この人は。尼さんは微笑んでいる。
「そうですね。ふふふふふ。みんな仏陀、それでいいんじゃないですか。」
Kさんは、ほれ見ろというように自慢げに私を見る。何なんだ、この人は。尼さんは楽しそうに微笑む。


「ところで心はどこにありますか?」尼さんは私を見つめてくる。
「え?」
「ここですか?」と言いながら、尼さんは指で頭をさす。
「それともここですか?」今度は胸に手をあてる。小さくて真っ白な手だ。
私は首を振る。
「わかりません。どこにあるんですか?」
「さぁ?」
「え?」
「さぁ、どこにあるんでしょうねぇ。」そう言って、尼さんは静かに微笑む。
そして近くにあった紙の切れ端に、ペンで「無」と記した。
「え?」私は分からなくなった。
無、無、無、無、無?尼さんは微笑んだままだ。私は尼さんを見つめ次の言葉を待った。
「たくさん食べなさい。」そう言うと、チジミののった皿を私に差し出す。
 それが最後の言葉だった。尼さんはさっきから何も口をつけない。お茶にも手を触れていなかった。

ふと気がつくと、カン先生がいない。そういえばKさんとお堂に入った時には、カン先生はいなかった。携帯を確認するとカン先生からの着信がある。カン先生に電話をかける。

「カン先生、今どこですか?」
「おまえは、どこにいる?」カン先生はかなり酔っているようだ。
「まだ、寺にいます。先生はどこにいるんですか。」
「俺か、俺はもう帰ったよ。」
「え?どこにですか?」
「山の家へ。」
「え?じゃあ自分はどうすれば?」
カン先生が何かをしゃべり続ける。聞き取れない。携帯をKさんに渡す。Kさんは笑いながら大声でカン先生と話す。
「あいつは飲み過ぎてもう動けないってさ。まあいいや、一緒に飯を食おう。」

 Kさんは笑う。私は唖然とした。
 どういうことだ。何もわからない外国人を友人のところにおいたまま普通帰るかよ。ありえないよ。俺はどうなるんだ。今日このKさんと過ごすのか?さっき会ったばかりのこの人と、どうやって過ごせばいいんだ。Kさんを見つめる。
「飯のことなら心配ない。妻が用意している。あれは俺の二人目の女房だ。セカンドワイフ、セカンドワイフ。あいつはテニスプレーヤーだった。モデルもやってた。本当だぞ。ハハハハ。飯のことなら心配ない。セカンドワイフ。ッフフフフ。テニスとモデル。ッフフフフ。」
このべろんべろんに酔っ払ったKさんと、どうしろというのだ。私はカン先生を恨めしく思った。


 山田花子似の小柄な尼さんが見送ってくれた。酔っ払ってふらついているKさんと困惑顔の私を見つめ、微笑んでいる。

 石の階段を降りる。前を歩くKさんは、ゆらゆらと揺れながら降りていく。
 ふと、私の脳裏に尼さんの書いた「無」という文字が浮かび上がる。
 振り返ると尼さんは微笑んだままこちらを見つめている。

 私と目が合うと、頷いて静かに頭を下げた。
 小さな尼さんを巨大な木々が包み込んでいた。



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