2012年2月27日月曜日

卒業

 もう二週間ほど前のことになるが、卒業式があった。
  当日、校門のところに花屋が出店した。こんなもの売れるのかなと思っていたが、卒業生の家族などがけっこう買っていた。

 卒業式は厳粛な雰囲気は全くなく、ほのぼのとしたものであった。
 初めに国家や校歌の斉唱がある。
 その後、学校紹介ビデオが流れる。入学からの思い出の写真等が映り、様々な分野で活躍した生徒がビデオ内で紹介される。その後に個人の写真が次々と現れる。かなりレベルの高いビデオ作品だったので、専門の業者が作成したものと思う。生徒達はそれなりに盛り上がっていた。


  続いて、校長と来賓の祝いの言葉がある。その後は何と二年生のバンドが演奏をした。卒業式で生徒がシャウトしている姿を見るのは初めてである。校長も体を揺すりながら手拍子をしていた。
 ただ、これだけラフな卒業式だと何の感慨も湧いてこない。
 卒業生と2年生が式には参加している。教員や保護者は立ったままその周りを適当に取り囲んでいる。式に参加していない教員も多い。式が始まっても保護者の出入りが激しい。話をしたり、携帯で連絡をとっている保護者もいて、かなり騒がしい。
  3年生はほとんどが私服。制服は後輩にあげてしまうのだ。学校ではそういう期間が設けられていて、制服を後輩にあげてしまった生徒は、その後学校には私服でやってくる。髪を染めている者も多い。
 一番気になったのが生徒達の式での態度である。おしゃべりをしているものが多い。ガムや飴を食べているもの、携帯を出しているものが少なからずいる。だが式の進行を妨害しようとする者などはいない。卒業式はあっさりと始まり、あっさりと終わった。


  3年生は教えていないので私自身も何の感慨も湧いてこない。だが、3年生の染色科の女子生徒達が挨拶に来た。ここは工業高校なので女子は数人しかいないのだが、この生徒達は廊下で出会うたびに「こんにちは」「ありがとう」「はーい」などといつも日本語で声をかけてきた。「これから頑張ってね。」と韓国語で声をかけると「はーい、ありがとう。」と日本語で返してくる。彼女らの保護者は、珍しそうに私を見つめてくる。日本人を間近で見るのが初めてなのかもしれない。何せ私自身もこの街でまだ一人も日本人に会ったことがないのだ。まぁ街ですれ違っているのかもしれないが・・・。
 放課後授業で交流をもったソン君も挨拶に来た。「釜山の学校でホテルマンになるための勉強をする。」ということだ。ソン君とは一緒にバスに乗って、街に出て食事をしたこともある。とても思いやりがある生徒で、信頼がおける。彼ならしっかりとしたホテルマンになるだろう。


 自分の高校時代を思い出す。はっきり言って、ものすごくいい加減な卒業式であった。
 それぞれクラスの代表が卒業証書をもらいに舞台にあがるのだが、いろいろなパフォーマンスを行うのが当時の伝統になっていた。何人かで舞台に上がり、校長を胴上げするクラス。制服を全て脱ぎ捨てパンツ一丁になり、両脇にバケツを挟み、「子宮!」と大声で叫びながら証書を受け取るクラス・・・。

 我々のクラスは、行事ごとのパフォーマンスにおいてはいつも工夫を凝らしていた。私はそのパフォーマンス集団の一員であった。
 体育祭でのクラス対抗リレーでは、私は鉢巻き、腹巻き、地下足袋という土方の格好をして走った。何故か鉢巻きには、北斗の拳のケンシロウの顔を切り抜き貼っていたのを覚えている。友人はマクドナルドでバイトをしている女子から店員用の制服を借り、女装して走るという懲りようだった。もう一人は聴診器を持ち、白衣姿で。そしてもう一人はスーツを着てネクタイをはめサラリーマンに扮装して走った。そんな格好で走っても俊足揃いの我々は、完璧なバトンワークで1位だったと記憶している。
 文化祭では女子に赤ふんどしを手縫いで作ってもらい、赤ふん隊四人組として舞台に立ち、裸で下品なパフォーマンスを行った。今思い出すと、どうしようもないほどひどいパフォーマンスだったと思う。「赤いふんどしを4人分作って欲しい。」という、ありえないような注文にも応じてくれた同じクラスの女子生徒のことを、今でもはっきりと覚えている。


 我々のクラスは大変チームワークが良く、文化祭では静かに和風喫茶をしていると見せかけ、文化祭当日の午後から一挙に教室を暗室にし、ミラーボールやミキサーなどを設置してディスコを作りあげてしまった。初めはみんな照れていたが、卒業した先輩らも続々とやってきて会場を盛り上げてくれた。その後はものすごく盛り上がり、みんな狂ったように踊りまくった。
 教室内は音楽と照明と踊り狂う若者達の汗で、ものすごい熱気となっていた。教員らに気づかれたが、我々数名が教室の入り口を封鎖し、踊り続けた。
 途中から私は、用心棒のように教室の入り口の外に立っていた。何故か赤い鉢巻きをはめ、羽織袴姿で巨大な張扇を持って・・・。そして学生や卒業生だけを会場に入れていた。
 社会科のN先生がすっ飛んで来て「おい、中で何やってるんだ?」と聞く。ガラスには全て段ボールや暗幕を貼り、中が見えないようにしてあるのだ。それでも大音量の音楽が漏れてくるし、ガラスが振動で割れんばかりにビリビリと振るえている。「和風の喫茶店です。」「見せてみろ。入るぞ。」「だめです。学生以外立ち入り禁止です。」「何だって?」とN先生の眼鏡の奥の細い目が大きく見開かれる。「先生、大丈夫です。安心してください。」と落ち着いて答える。「おい、ホント頼んだぞ。」それで引き下がってくれるのがN先生であった。N先生は我々がやっていることはいつも全部お見通しなのだが、最後は何故か許してくれた。

 そんなクラスであったが、卒業式は何のパフォーマンスもしなかった。仲間で話し合い、「最後はびしっといこうぜ。」ということになったのだ。「あのクラスは必ず何かやる。」と思われていたようで、会場が静まりかえった。そんな中、クラスの代表のTが直立不動で卒業証書を受け取った。学生服をきちんと着て礼をするTは格好良かった。どのクラスの代表よりも、いかしていた。「胴上げ」も「子宮!」も吹っ飛んだ。あの時、Tが厳粛な空気を作り上げたのだと思う。


 その後私はY県の教員になり、毎年厳粛な卒業式を体験している。卒業学年を担任しているときは感無量になる。そして溢れるように涙がこぼれる。
 やっぱり式は厳粛な方がいい。卒業式にパフォーマンスなんていらない。自然と涙が溢れてくる。それでいい。

 あの時のクラスのメンバーももう40代半ばなのだと思うと、笑いが込み上げてくる。もし今会うことがあって、「教員やってる。」って私が言ったら、「冗談だろ?」と笑われるに違いない。
 でもあの赤ふんどしを作ってくれた女性だけは、信じてくれると思うのである・・・。

2012年2月21日火曜日

別れ

 日本から韓国に戻り、久しぶりにキム先生に出会った。
 すごくやつれていて元気が無い。体調は大丈夫かと聞いても曖昧に微笑むだけだ。
 冬期休暇中に娘さんと二人で九州を旅すると伺っていたので、どんな旅でしたかと聞いてみた。ところがキャンセルして行かなかったとのこと。
 何かあったのだと思い、もう話しかけるのはやめた。


 しばらくするとキム先生の方から語り始めた。
 キム先生の一番の親友が交通事故で亡くなり、急遽日本への旅行は取りやめ、葬儀に参加したり、いろいろなことを手伝っていたとのことだ。家族三人一緒に亡くなったそうである。
 私はもう何も言葉をかけることはできなかった。
 大切な存在が一瞬のうちにこの世から消え去り、キム先生は深い悲しみを必死に耐えているように思えた。


 数ヶ月前にもこの街の高校教員が交通事故で亡くなっている。
 韓国の運転マナーは非常に悪い。とても危険だ。バスやタクシーでさえ、赤信号でも隙あらば突っ込んでくる。そしてやたらとクラクションで応酬しあっている。
 私は青信号で横断歩道を渡ろうとしたとき、ものすごい勢いで走ってきた市内バスに轢かれそうになったことがある。もちろんバスの進行方向の信号は赤である。それ以来、青でもすぐには渡らない。
 家族が韓国に遊びに来たとき、そのことを一番言い聞かせた。「青でも渡るな。」・・・油断したら轢き殺される。
 大袈裟なことではなく、それほど無謀な運転をするものが多く、歩行者や自転車に乗っている者など眼中に無い。

 私が交通事故を恐れるのには理由がある。
 今まで担任してきたクラスで、いずれも男子だが、大きな事故に巻き込まれている生徒がいるからだ。三人とも幸い無事だったが、長期間の入院を余儀なくされた。三人とも紙一重で助かっている。事故状況からいって、死んでいてもおかしくはなかった。
 また、授業を受け持っていた女子生徒で兄を事故で亡くしたものがいた。ちょうど彼女が高校3年生の時だった。その女子生徒は、それ以降交通安全教室にも参加できなくなってしまった。兄のことを思いだし、交通事故に関する話を聞くことが耐えられないのだ。

 自分ができること。それは身近な者に交通事故防止のためにいろいろな声かけを行うことと、自分自身安全運転を心がけることだ。
 職業柄、部活動などで生徒を車に乗せることが多い。また、地域の子供達を乗せることも多々ある。もし事故を起こし、その子達が亡くなるようなことがあったら、自分自身や自分の家族はもちろんのこと、その子達の家族や様々な関係者まで悲しみの底へ突き落とすことになる。そしてたぶんその悲しみは、癒えることなどないと思う。
 だから私は人を乗せたときは特に安全運転を心がけている。


 風見しんごの娘さんも青信号で横断歩道を渡っていて、車に轢かれ死亡している。彼は気丈にも仕事を続けたが、たぶん心はずたずたに引き裂かれていたと思う。

 やはり車というのは責任感のある大人の道具である。その自覚を持とうと改めて思った。
 
 キム先生ももうすぐ子育てが終わり、その親友と残りの人生、いろいろと楽しもうと思っていたに違いない。でももうそれもかなわない。

 運命というのは残酷だ。
 お年寄りから金を奪って豪遊しているものが生き残り、真面目に勤め上げてきたものが死に追いやられる。
 運命とはそういうものかもしれないが、そこに何とも言えない不条理さを感じてしまう。

 キム先生は転勤となった。
 彼女は黙ったまま荷物を片づけていた。何かをしていないと落ち着かないようだった。時々ため息をつき、肩を震わせていた。
 最後の段ボールを私はキム先生の車まで運んだ。「ありがとう。すみません。」と彼女は言った。いつもの明るく溌剌としたキム先生は今はいない。目元がやつれ、隈ができている。


 生きていくということは、たくさんの死に出会い、それを引き受けていくということだと思う。長く生きるということは、愛する者たちの死を受けとめる覚悟が必要になってくる。その覚悟を思うとき、私は身震いする。

 キム先生がいなくなり、学校も寂しくなった。
 
 キム先生はこの学校の太陽だったから・・・。

2012年2月15日水曜日

旅と病

この4日ほど発熱し、寝込んでいた。体温計を持っていないので正確にはわからないが、自分の経験からかなり高かったように思う。
体の痛みも激しく、ずっと布団の中でのたうち回っていた。体が一瞬たりとも止まらない。痛みを和らげるためかどうかわからないが、勝手にひっきりなしに動く。
病院や薬局に行こうなんて気力は全く湧いてこず、布団の中で唸っていた。それでも何か食べないとよくないと思い、インスタントラーメンを作り、体に無理矢理入れた。
3日めに少し熱が下がったので食材を買い出しに行った。野菜、果物、ヨーグルト、飲料水などを買った。果物というのはどんなに体調の悪いときでも、食欲が湧かないときでも、なんとか体の中に入ってくれる。ありがたい。個人的に神の食べ物だと思っている。ただこの買い出しの時にまた体を冷やしてしまい、夜になりどんどんと熱があがった。
あとは布団の中でのたうち回るだけ。


私は体があまり強い方ではないので、よく風邪をひいたり、腹痛を起こしたり、インフルエンザに罹ったりする。
その際、熱が高くなるとよく見る夢がある。
私がたった一人で宮殿や寺、神社などを建てる夢なのだ。どれも小さなものなのだが、なかなか完成しない。何故かというと足で作っているからだ。何故か手を使わず、私は必死になって足でそれらの建造物を作っている。尻を地面につけ両手で体を支え、足を宙に浮かせるという無理な姿勢で作り続ける。
ところが完成が近くなると必ずトラブルが起こる。私が全ての思いを注ぎ込んで足で作り上げた建造物。それが轟音とともに崩れ去るのだ。私は呆然となる。だが夢の中の私はまた作り始める。あきらめずこつこつと足で作っていく。作っては崩れ、作っては崩れ・・・。
目覚めた時には、ふらふらで汗まみれになっている。


旅先では今までいろいろなトラブルに巻き込まれてきた。だがやはり病気になることが一番怖い。
タイの北の都チェンマイのさらに北にチェンライという街がある。そこに滞在している時に突然高熱に襲われ動けなくなってしまった。激しい下痢と体中の痛みにも襲われ、安宿のベッドとトイレをずっと往復していた。大量の汗をかき、体がどんどん衰弱していくのがわかる。耳が聞こえにくくなり、意識も朦朧としてくる。
何か体に入れなければと思い、宿から出る。すぐ左手に屋台がある。バミーナーム(タイ式ラーメン)の屋台だ。ここのバミーナームは食欲がなくても食べられる。それほど美味いのだ。あとはンゴという果物を同じく屋台で買い、宿のベッドで寝転びながら囓っていた。ンゴはライチに似ていてとてもジューシーで高熱でも食べられる。だから今でも私はンゴには感謝している。
それでも熱はなかなかとれなかった。体調不良だと今度はだんだんとメンタルがやられてくる。日本から遠く離れたこの薄暗い部屋のベッドの上で、俺はどうなってしまうのだろう。そんなことを思ったりするようになる。
一向に熱が下がらず、体重がどんどん減っていくので、これはやばいぞと思う。地図を広げ、病院を探す。宿の近くにある。這うようにして行ってみる。
受付の女性も看護婦も全く英語が通じない。幸いにもドクターは英語が話せたので自分のめちゃくちゃな英語で現状を説明する。
ドクターは黒縁眼鏡をかけ、ひげを生やしたとても温厚そうな人で、久しぶりに安心感を覚えた。採血されたあと、口の中や目、鼻、耳の中、あとは上半身のあらゆるところを丁寧に調べてくれて、カルテに何事か書き込んでいる。そしてドクターは微笑みながらこう言った。「メイビー、マラリア。」・・・「マラリア」という言葉を微笑みと共につぶやくドクター。それに何故「メイビー(たぶん)」なんだ・・・。私はこのドクターがいっぺんに好きになってしまった。
この病院を訪れる前、私は「日本は遠い、俺はどうなる。」などとかなり深刻に悩んでいた。それに恥ずかしい話だが、この地をかつて治めたチェンライ王像にも「体が治りますように。」とお参りしたりしたのだ。それなのにこのドクターは「おー日本から来たの。で?熱があるのか。ふーん、なるほど。ふふふふ。それで?おーおー、体も痛いか、ふふふふ。そうか、そうか、そんなに痛いか。じゃあ血を見てやろう。ん?あ~こりゃマラリアだなぁ~。ん、たぶんね~。よく分からないけど、たぶんマラリアじゃないかな~。そう、苦しいのか?ふふふふ。もうちょっと続くよ~。ふふふふふふふ。」という感じなのだ。
私はなんだか笑えてきてしまった。ドクターは私に注射をし、何日分かの薬を渡してくれた。その薬を飲みながら安静にしているうちに体は元に戻った。気持ちの方はあのドクターに出会った時点で治ってしまっていた。


私はチェンライに来る前にタイのジャングルに一週間ほど入った。だが、出会った旅人からの情報でジャングルはマラリアに罹る恐れがあるからということを聞き、バンコクでマラリア予防のタブレットを購入して定期的に飲み続けていたのだ。あの発熱は、本当にマラリアだったんだろうか?私はあのドクターのことがとても好きだし、感謝している。だが医者にはやっぱり「メイビー(たぶん)」という言葉は使わないでほしいものである。

 今回こんな「病」について記してみたのはちょっとした想いがある。
 健康は本当に大切である。健康であるからいろいろなことができる。だが「病」を「負の面」だけで捉えることだけはするまいと思っている。病んだ時だからこそ見えてくることや経験できることもある。それに、普段考えることを避けているようなことにも想いを馳せる機会を得る。例えばそれは「生まれたからには、死ななくてはならない。」ということであったり、「あと自分の持ち時間はどのくらいなのだろう、で、何をする?」などということである。病に冒されているときの方が大切な物の輪郭をはっきりさせるようにも思う。


  今、久しぶりに近くを流れる川を見に行ってきた。気持ちが洗われた。川沿いをゆっくりと歩いてみた。
 足が喜んでいる。建造物を作るよりもこうやってのんびりと歩く方がやっぱり足にとっても心地よいようだ。
 だが、膝が笑っている。まだ完全復活とはいかないようである。

2012年2月6日月曜日

一人でぶらりと出かけようかと思い、地図を眺める。どこかの港町がいい。
 とはいえ釜山はもう10回以上も行き、いつも宿泊する宿の主人とは顔見知りになってしまった。どこか他の小さな港町がいい。
 地図を見ながらどこに行こうかと考える時間が好きだ。さて、どこに行こうか。
 文禄慶長の役で日本水軍を破った韓国の英雄、李舜臣。彼のゆかりの地である統営(トンヨン)に行ってみることにした。地図で海岸線の形状を見るとたくさんの入り江があり美しそうに思えたからだ。それにしても秀吉軍はこんなところまで攻めてきたんだなぁ。
   

  統営行きのバスはがらがらであった。バスは山や谷を越え海に向かう。
 統営は直感通りの素敵な港町であった。港にはたくさんの漁船が停泊しており、カモメが空に戯れている。
 李舜臣像がある南望山彫刻公園に上り、港町の形状を頭に入れる。


 市場をぶらつく。
 様々な活き魚が売られている。ヒラメ、鯛、穴子、うなぎ、チヌ、どれも四角いバケツの中を泳いでいる。様々な貝が海水の中を蠢いているのも見える。海草や乾物なども売られている。
 それらを眺めながらのんびり歩いているとたくさんのアジュンマ(おばさん)達から声をかけられる。やはりどこでも魚市場は活気がある。
 東京の築地で海産物の配達の仕事を一年ほどしていたことがある。築地の場内市場もそうだった。海産物を扱う人々は明るく元気で押しが強い。

 
 今度はアジョッシ(おじさん)から呼び止められる。入れ物にはヒラメや鯛などが泳いでいる。その中にやたらと生きのいい黒メバルがいた。アジョッシは鯛を勧めてきたが、黒メバルをさばいてもらうことにした。
 露店の奥にある店に入る。アジュンマがビールとキムチ、野菜などを運んでくる。しばらく待つと先ほど元気に泳いでいた黒メバルが刺身となり運ばれてくる。食べるとはこういうことだ。「いただきます」とは本当に命を「いただく」ことなのだ。
 一切れ口に運ぶ。身がコリコリしていて甘みがある。香りもある。無茶苦茶おいしい。たまらない。命をもらっているという感慨など吹き飛び、ビールを飲みながら刺身をつまむ。所詮自分の思考など、最高の味覚の前には粉々に砕け散ってしまう程度のものなのだ。


 だがどんなに美味いものでも一人での食事は寂しいものである。私の横ではカップルが刺身をつまみながら楽しそうに何事かを語っている。後ろでは年配の男女六人が焼酎を飲みながら宴会を行っている。私の前には若い男性と中年女性が鍋をつついている。
 年末年始、家族が韓国に来た。ソウルを観光した後、最後は釜山を訪れた。チャガルチ市場に行き、ヒラメ、イカ、タコの刺身、メバル、穴子の唐揚げ、そしてアワビのバター焼きを食べた。マッコリを飲みながら。・・・これは最高においしかった。ぶつ切りにされたタコはまだ生きていて、食べると唇や舌に吸い付いてくる。
 やはり食事は仲間や家族と食べるのが一番だ。


 宿を探す。数え切れないほどのモーテルがある。何故こんなにモーテルが?
 港の東には「金井荘」という商人宿のような建物があった。ニュージーランドで頑張っているカナイさんのことを思い出した。これも縁かもしれない。そこにしようかと思った。・・・だがやめておいた。今日はどうしても湯船につかりたいと思ったからだ。この金井荘、見たところ確実にシャワーしか無い。それも共同だと思う。
 今日は一人ゆっくりと湯船に浸かった後、夜の港を眺めながら冷えたビールを飲みたいと思っていたのだ。結局、港を見下ろす最高の立地にあるナポリモーテルというところに泊まることにした。「金井」より「ナポリ」に惹かれてしまったのだ。


 夕陽を見に行く。
 港を一望できるところまで丘を上っていく。風が冷たい。耳や頬の感覚がなくなっていく。こんな寒い夕方に夕陽を見に来る物好きな者など誰もいないと思ったが、私の他にもちらほらといた。みんな寒さに身震いしながら沈みゆく太陽を見つめていた。
 少しずつ港が闇に包まれていく。風が強くなる。体温がどんどんと奪われていく。
 以前旅先でいつも夕陽を眺めていた。だがその時とは違う。太陽の沈むスピードがものすごくゆっくりに思える。何故なんだろう。太陽が山の端に触れてからなかなか動かないように思える。
 生きているうちに自分の中の何かが変わったのだと思う。自分の中の時の流れに、微妙な変化が起こったのだと思う。そういえば夕陽をゆっくりと見つめるのも本当に久しぶりだ。
 
 
 太陽の最後のひとかけらが山に消えた。
それを待っていたかのように闇が港を埋めていった。