突然思い立ち、ザックに衣服などを詰め込み、アパートをあとにした。
今はまだ冬休み。時々学校の職員室に行き、イ先生から頼まれている教材研究をしていた。だがいつも職員室には3人ぐらいしか人はいない。
日本の学校のように長期休暇中も毎日出勤などということは韓国にはない。韓国の先生方は長期休暇期間にはしっかりと休みをとり、家族でのんびりと過ごしたり、海外旅行に出かけたりするのだ。
以前イ先生から「日本の学校はどうですか?」と聞かれたことがある。
「長期休暇といっても、部活動はあるし、課外授業もあるし、保護者面談もあるし、通常の勤務とそんなにかわりませんね。」と私が答えると本当に驚いていた。
「休暇は休まなければ・・・何故日本人はそんなに働くんですか?」
うーむ、そう言われてもなぁ。
普段の授業がある日も、ほとんどの先生は勤務時間が終わればいなくなる。だいたい8割の先生がさっさと帰宅する。残りの2割、クラブ活動や放課後授業がある先生のみ残る。だがそれらの先生には、毎日の残業時間分の手当は支給されるのである。
私は聞いた。「みなさん家に仕事を持ち帰ってるんですか?」すると「家に?どうして家に仕事を持ち帰らなければならないの?」と不思議がられたものだ。
ある先生からはこうも言われた。「この休暇期間に、様々な体験をしてリフレッシュしないと。そして新しい気持ちで生徒と接するのが大切でしょ。」
うーむ、確かにそうなんだけど・・・、今の日本ではなぁ。
昨年度の日本の教員の心の病などによる休職者が5000人を超えているという。10年前の二倍ということだ。病気休職者を加えると8500人を超える。日本の先生、大丈夫だろうか?自分は帰国して日本の学校のペースについて行けるのだろうか?
「は?」
「どこで降りるの?」
声量は無くか細い声だが、とても温かみがあった。この国に来てアジュンマ達の叫ぶような甲高い声ばかり聞いてきたので、その小さなおばあさんの声を聞き、自分の中に温もりが広がるのが分かった。
「日本から来ました。」
「日本人?」
「はい。」
「仕事で?」
「はい。高校で日本語を教えています。」
「高校?先生なの?どこで教えているの?」
私は驚いた。どういう意味だろう。私はおばあさんに感謝されるようなことは何もしていない。落ちくぼんだおばあさんの目をじっと見つめると、おばあさんはこう言った。
「この国に来てくれて、ありがとうね。子供達をよろしくお願いします。」
そして私に頭を下げたのだ。私は急に胸の奥が熱くなってくるのを感じた。そしておばあさんに何も言えないでいた。
バスが停車するごとに、おばあさんたちは一人、また一人と降りていく。こんなところで生きていけるのかと思えるような何もない場所でおばあさんたちは降りていく。そしてもう乗る者は誰もいない。
私も頭を下げて
「さようなら。お体を大切になさってください。」と言った。
おばあさんは微笑む。
バスの扉が閉まる。乗客は私一人きりになった。
今、自分はどこにいるんだろう?
今はまだ冬休み。時々学校の職員室に行き、イ先生から頼まれている教材研究をしていた。だがいつも職員室には3人ぐらいしか人はいない。
日本の学校のように長期休暇中も毎日出勤などということは韓国にはない。韓国の先生方は長期休暇期間にはしっかりと休みをとり、家族でのんびりと過ごしたり、海外旅行に出かけたりするのだ。
以前イ先生から「日本の学校はどうですか?」と聞かれたことがある。
「長期休暇といっても、部活動はあるし、課外授業もあるし、保護者面談もあるし、通常の勤務とそんなにかわりませんね。」と私が答えると本当に驚いていた。
「休暇は休まなければ・・・何故日本人はそんなに働くんですか?」
うーむ、そう言われてもなぁ。
普段の授業がある日も、ほとんどの先生は勤務時間が終わればいなくなる。だいたい8割の先生がさっさと帰宅する。残りの2割、クラブ活動や放課後授業がある先生のみ残る。だがそれらの先生には、毎日の残業時間分の手当は支給されるのである。
私は聞いた。「みなさん家に仕事を持ち帰ってるんですか?」すると「家に?どうして家に仕事を持ち帰らなければならないの?」と不思議がられたものだ。
ある先生からはこうも言われた。「この休暇期間に、様々な体験をしてリフレッシュしないと。そして新しい気持ちで生徒と接するのが大切でしょ。」
うーむ、確かにそうなんだけど・・・、今の日本ではなぁ。
昨年度の日本の教員の心の病などによる休職者が5000人を超えているという。10年前の二倍ということだ。病気休職者を加えると8500人を超える。日本の先生、大丈夫だろうか?自分は帰国して日本の学校のペースについて行けるのだろうか?
韓国の地図を見ていてある地名が目にとまる。珍島・・・チンド。おう!天童よしみの『珍島物語』で有名なあの珍島ではないか。よしそこへ向かおう。
私が今いる街からバスでまず光州(クァンジュ)へ。そして木浦(モッポ)、珍島(チンド)とバスを乗り継ぎ、モーテルに泊まりながら移動する。急ぐことなく、のんびりと移動する。
私は韓国では一人旅の時はモーテルに泊まる。いかがわしい雰囲気のところも多いが、特に問題はない。だが、「きちんとしたところしかダメ。」という人はやめた方がいい。それと男性ならば大丈夫だが、女性一人旅の場合はモーテルはやめた方がいいかもしれない。ホテルの方がいいだろう。そのかわり小さな街にはホテルはないので、大きな街ばかり巡ることになるだろう。
モーテルはどこにでもある。必ずある。小さな街では客が自分一人ということもよくあるが、宿のアジュンマ(おばさん)、アジョッシ(おじさん)はとても優しい人たちばかりであった。
珍島(チンド)は「海割れ現象」で有名なところである。「海のなかに道ができる」というやつだ。だがこれは4月から5月頃におこる現象らしい。到着してからそのことを知る。まぁいい。いつものことだ。
珍島(チンド)は珍島犬でも有名である。珍島犬は非常に頭が良く帰巣本能が強い犬だという。
韓国観光公社のサイトにはこんな記載があった。「去る1993年10月、ある珍島犬が、大田(テジョン)の愛犬家に売られてしまいましたが、昔の主人を忘れることができず7ヶ月にわたって八百里の道を歩いて元の主人である珍島郡義新面トンジ村のパク・ボクダンお婆さんの元に帰って来たことが知られ全国民を驚かせました。」
出会った子犬たちは本当に可愛かった。とても人なつっこくて自分が差し出す指をずっと舐め続けていた。自分はかつて10年以上雑種の雌犬を飼っていたことがあり、犬はとても好きなのである。子犬に触れていると懐かしい思いが湧き上がってきた。
島の東端、セパンというところへバスで向かう。たしか1日2本しかなかったと思う。夕焼けを見たいと思ったのだが、あいにく空には厚い雲が・・・。まぁいい、とりあえず行ってみよう。
小さなバスであった。乗客は小学生高学年くらいの男の子が3人、あとはおじいさんとおばあさんばかりであった。
バスは田舎の細い道を走る。だがこのバス、独特なコースをたどる。細い道を入って行ったかと思うと、そこで客を拾い、またもと来た道を引き返す。客が声をあげると畑の真ん中でも停車する。どうやらこの地域の乗り合いバスのようなのだ。
小学生達は次々とバスを降り、私以外はお年寄りばかりになる。やがておじいさん達がみんな降り、おばあさんだけになる。停車するごとに、乗っていたおばあさんが降り、あらたに別のおばあさん達が乗ってくる。おばあさん達はそれぞれ顔なじみのようで挨拶を交わし、会話を始める。
周りは畑と収穫を終えた田んぼ、そして荒れ果てた野原ばかり。ほとんど人家はない。空は暗くどんよりとしていて、荒涼とした風景が続く。色彩というものが感じられない。茶色と灰色の世界がそこにあるだけだ。
私はふと芥川龍之介の『蜜柑』を思い出す。個人的には芥川の作品群の中では最も好きなものだ。あのラストシーン・・・何度読んでも芥川の描写力に震えたものだ。鬼才は毒をふくみ自らこの世を去ったが、作品は今後も残り続けるであろう。
『蜜柑』のように、私の乗る小さなバスには少女は乗っていない。おばあさんばかりである。
斜めになった電信柱の横でバスは停まる。何人かのおばあさんが降り、また何人かのおばあさんが乗ってくる。
何故こんなにおばあさんばかりなのであろうか?この世にはもうおばあさんしかいないような錯覚をおこしてしまう。ここはおばあさんの世界なのか・・・。自分は異空間に足を踏み入れてしまったのか?
私の右隣に小さなおばあさんが座る。黒く細い杖と小さな布袋を持っている。それにしても小さい。おばあさん、あなたはどうしてそんなに縮まってしまったのですか?ホント何故こんなにも小さいんだろう?『マンガ日本昔話』に出てくるようなおばあさんである。年齢は80代後半に思われる。私の父方の祖母が今90代半ばだが、それに近い年齢に思われる。顔は日に焼けていて、目が落ちくぼんでいて小さい。深い穴の奥に黒い水が揺れているような目だ。
しばらくしておばあさんが突然話しかけてくる。
「どこまで行くの?」「は?」
「どこで降りるの?」
声量は無くか細い声だが、とても温かみがあった。この国に来てアジュンマ達の叫ぶような甲高い声ばかり聞いてきたので、その小さなおばあさんの声を聞き、自分の中に温もりが広がるのが分かった。
「セパンで降ります。」
おばあさんは怪訝な表情を浮かべる。私が切符を見せると、
「あぁ、セポーン。」と言う。
私が読むとこのハングルは「セパン」になるのだが、おばあさんは「セポーン、セポーン」と繰り返す。おばあさんが周りにいる他のおばあさん達に伝える。「セポーンに行くんだってさ。」周りのおばあさん達も「え?」っていう顔を自分に向けてくる。そして口々に「セポーン、セポーン。」と呟いている。
何なんだ、いったい。そこに行ってはいけないのか?そこに何があるのか?踏み行ってはならない場所なのか?呪いの地なのか?私は聞いてみた。
「セポーンはまだですかね?」おばあさんは黙ってうなずく。そして首を振りながら「セポーン」とまだ呟く。見回すとバスに乗っているおばあさん全てが私を見つめている。私の隣に座る小さく縮んでしまっているおばあさんが口を開く。
「あなた、どこから来たの?」「日本から来ました。」
「日本人?」
「はい。」
「仕事で?」
「はい。高校で日本語を教えています。」
「高校?先生なの?どこで教えているの?」
私は自分の暮らしている街の名前を告げる。だがおばあさんは考えるように首を傾げ、知らないという。私は自分の発音が悪かったのだと思い、もう一度その街の名を告げる。それでも首を振る。私は驚いた。私の暮らす街は確かにこの珍島からはずっと離れたところにあるが、それなりに有名な地方都市だからだ。
私はバスに揺られながら、かつてインドを旅していた時に出会った一人の少年を思い出していた。
彼は自転車屋で働いていて、いつも店先でパンク修理などを手伝っていた。私は石の階段に座りぼんやりとその少年の作業を見つめていた。痩せていて、ボロぞうきんのような衣服を体に巻き付けている。手や顔は油で汚れて真っ黒である。額に汗が浮かんでいる。
私と目が合うと彼は微笑む。真っ白な歯が見える。それ以来その道を通るたびにちょっとした会話を交わすようになった。彼とはお互いたどたどしい英語で話した。
彼が私にどこから来たのだと聞いてきた。「ジャパンだ。」と言うと「知らない。」と言ったのだ。私は驚き、そこにしゃがみこみ砂地の上に簡単な世界地図を書いた。そして日本の場所を教えた。彼は頷いた。
周りにいた子供達も何事かと集まってくる。どの子の服も真っ黒に汚れていて、つぎはぎだらけである。鼻の下には鼻水が固まっている。私はジェスチャーを交えながら話す。
「それじゃぁ、君らが今暮らしているインドはこの地図でどこだ?」
と聞くとみんな首を振る。わずかに英語の分かる自転車屋の少年も「分からない。」と寂しそうな顔をした。
私は胸が熱くなった。行っていないのだ・・・。みんな学校に行っていないのだ。学ぶ機会が与えられていないのだ。私はインドを指さした。
「ここがインドだ。今我々はここにいる。」
と伝えるとみんな嬉しそうに笑う。どの子も私の話を真剣に聞くし、食い入るように砂の上に書かれた地図を見つめている。
「ニューデリーは知っているか?」
「知らない。」
「カルカッタは?」
「知らない。」
私は砂地に描いた世界地図を消して、インドの簡単な地図を指で大きく描く。みんなそれをじっと見つめる。
「いいか、ここがカルカッタだ。そしてここがプリーだ。こっちは海だよ。」
そう言いながら、砂の上に魚と船の絵を描く。みんなは私を見つめる。そして何事かを囁き合いながら微笑む。私の絵を指さし笑う者もいる。
「今みんなはプリーにいるんだよ。分かった?プリーはここだよ。」
「分かった。」
自転車屋の少年が頷き、周りにいる子供達に説明している。子供達が笑顔になる。みんな私を見つめてくる。
「ここはインドのプリーだよ。みんな今ここにいるんだよ。私はジャパン。ジャパンから来たんだ。」
と言いながら自分の胸を指さす。みんなは嬉しそうに頷く。誰の目も光っている。そして私の一挙手一投足に注目している。
子供達の「学びたい」という炎のような情熱が私の胸を突き刺したのを今でも覚えている。
おばあさんが私を見つめ突然こう言った。
「ありがとうね。」私は驚いた。どういう意味だろう。私はおばあさんに感謝されるようなことは何もしていない。落ちくぼんだおばあさんの目をじっと見つめると、おばあさんはこう言った。
「この国に来てくれて、ありがとうね。子供達をよろしくお願いします。」
そして私に頭を下げたのだ。私は急に胸の奥が熱くなってくるのを感じた。そしておばあさんに何も言えないでいた。
バスが停車するごとに、おばあさんたちは一人、また一人と降りていく。こんなところで生きていけるのかと思えるような何もない場所でおばあさんたちは降りていく。そしてもう乗る者は誰もいない。
やがてバスは、今にも崩れてしまいそうな傾いたあばら屋が二軒建っているだけのところに停車する。私の隣に座っていた小さなおばあさんは、そこでバスを降りた。席を立ち上がるとき、また私に頭を下げて言った。
「来てくれてありがとうね。よろしくお願いします。」私も頭を下げて
「さようなら。お体を大切になさってください。」と言った。
おばあさんは微笑む。
杖をつきながらゆっくりと歩くおばあさんに、あばら屋から出てきた灰色の犬がしっぽをふりながら近づいていく。
バスの扉が閉まる。乗客は私一人きりになった。
今、自分はどこにいるんだろう?