2013年1月24日木曜日

今、どこにいる?

 突然思い立ち、ザックに衣服などを詰め込み、アパートをあとにした。

 今はまだ冬休み。時々学校の職員室に行き、イ先生から頼まれている教材研究をしていた。だがいつも職員室には3人ぐらいしか人はいない。
 日本の学校のように長期休暇中も毎日出勤などということは韓国にはない。韓国の先生方は長期休暇期間にはしっかりと休みをとり、家族でのんびりと過ごしたり、海外旅行に出かけたりするのだ。

 以前イ先生から「日本の学校はどうですか?」と聞かれたことがある。
「長期休暇といっても、部活動はあるし、課外授業もあるし、保護者面談もあるし、通常の勤務とそんなにかわりませんね。」と私が答えると本当に驚いていた。
「休暇は休まなければ・・・何故日本人はそんなに働くんですか?」
うーむ、そう言われてもなぁ。

 普段の授業がある日も、ほとんどの先生は勤務時間が終わればいなくなる。だいたい8割の先生がさっさと帰宅する。残りの2割、クラブ活動や放課後授業がある先生のみ残る。だがそれらの先生には、毎日の残業時間分の手当は支給されるのである。

 私は聞いた。「みなさん家に仕事を持ち帰ってるんですか?」すると「家に?どうして家に仕事を持ち帰らなければならないの?」と不思議がられたものだ。
 ある先生からはこうも言われた。「この休暇期間に、様々な体験をしてリフレッシュしないと。そして新しい気持ちで生徒と接するのが大切でしょ。」
うーむ、確かにそうなんだけど・・・、今の日本ではなぁ。

 昨年度の日本の教員の心の病などによる休職者が5000人を超えているという。10年前の二倍ということだ。病気休職者を加えると8500人を超える。日本の先生、大丈夫だろうか?自分は帰国して日本の学校のペースについて行けるのだろうか?

 
 韓国の地図を見ていてある地名が目にとまる。珍島・・・チンド。おう!天童よしみの『珍島物語』で有名なあの珍島ではないか。よしそこへ向かおう。
 
 私が今いる街からバスでまず光州(クァンジュ)へ。そして木浦(モッポ)、珍島(チンド)とバスを乗り継ぎ、モーテルに泊まりながら移動する。急ぐことなく、のんびりと移動する。
 
 私は韓国では一人旅の時はモーテルに泊まる。いかがわしい雰囲気のところも多いが、特に問題はない。だが、「きちんとしたところしかダメ。」という人はやめた方がいい。それと男性ならば大丈夫だが、女性一人旅の場合はモーテルはやめた方がいいかもしれない。ホテルの方がいいだろう。そのかわり小さな街にはホテルはないので、大きな街ばかり巡ることになるだろう。
 モーテルはどこにでもある。必ずある。小さな街では客が自分一人ということもよくあるが、宿のアジュンマ(おばさん)、アジョッシ(おじさん)はとても優しい人たちばかりであった。

 
 珍島(チンド)は「海割れ現象」で有名なところである。「海のなかに道ができる」というやつだ。だがこれは4月から5月頃におこる現象らしい。到着してからそのことを知る。まぁいい。いつものことだ。
 
 珍島(チンド)は珍島犬でも有名である。珍島犬は非常に頭が良く帰巣本能が強い犬だという。
 韓国観光公社のサイトにはこんな記載があった。「去る199310月、ある珍島犬が、大田(テジョン)の愛犬家に売られてしまいましたが、昔の主人を忘れることができず7ヶ月にわたって八百里の道を歩いて元の主人である珍島郡義新面トンジ村のパク・ボクダンお婆さんの元に帰って来たことが知られ全国民を驚かせました。」
 
 出会った子犬たちは本当に可愛かった。とても人なつっこくて自分が差し出す指をずっと舐め続けていた。自分はかつて10年以上雑種の雌犬を飼っていたことがあり、犬はとても好きなのである。子犬に触れていると懐かしい思いが湧き上がってきた。

 
 島の東端、セパンというところへバスで向かう。たしか12本しかなかったと思う。夕焼けを見たいと思ったのだが、あいにく空には厚い雲が・・・。まぁいい、とりあえず行ってみよう。
 
 小さなバスであった。乗客は小学生高学年くらいの男の子が3人、あとはおじいさんとおばあさんばかりであった。
 バスは田舎の細い道を走る。だがこのバス、独特なコースをたどる。細い道を入って行ったかと思うと、そこで客を拾い、またもと来た道を引き返す。客が声をあげると畑の真ん中でも停車する。どうやらこの地域の乗り合いバスのようなのだ。
 
 小学生達は次々とバスを降り、私以外はお年寄りばかりになる。やがておじいさん達がみんな降り、おばあさんだけになる。停車するごとに、乗っていたおばあさんが降り、あらたに別のおばあさん達が乗ってくる。おばあさん達はそれぞれ顔なじみのようで挨拶を交わし、会話を始める。
 
 周りは畑と収穫を終えた田んぼ、そして荒れ果てた野原ばかり。ほとんど人家はない。空は暗くどんよりとしていて、荒涼とした風景が続く。色彩というものが感じられない。茶色と灰色の世界がそこにあるだけだ。
 私はふと芥川龍之介の『蜜柑』を思い出す。個人的には芥川の作品群の中では最も好きなものだ。あのラストシーン・・・何度読んでも芥川の描写力に震えたものだ。鬼才は毒をふくみ自らこの世を去ったが、作品は今後も残り続けるであろう。
 
 『蜜柑』のように、私の乗る小さなバスには少女は乗っていない。おばあさんばかりである。
 
 斜めになった電信柱の横でバスは停まる。何人かのおばあさんが降り、また何人かのおばあさんが乗ってくる。
 何故こんなにおばあさんばかりなのであろうか?この世にはもうおばあさんしかいないような錯覚をおこしてしまう。ここはおばあさんの世界なのか・・・。自分は異空間に足を踏み入れてしまったのか?
 
 
 私の右隣に小さなおばあさんが座る。黒く細い杖と小さな布袋を持っている。それにしても小さい。おばあさん、あなたはどうしてそんなに縮まってしまったのですか?ホント何故こんなにも小さいんだろう?『マンガ日本昔話』に出てくるようなおばあさんである。年齢は80代後半に思われる。私の父方の祖母が今90代半ばだが、それに近い年齢に思われる。顔は日に焼けていて、目が落ちくぼんでいて小さい。深い穴の奥に黒い水が揺れているような目だ。
 
 しばらくしておばあさんが突然話しかけてくる。
「どこまで行くの?」
「は?」
「どこで降りるの?」

 声量は無くか細い声だが、とても温かみがあった。この国に来てアジュンマ達の叫ぶような甲高い声ばかり聞いてきたので、その小さなおばあさんの声を聞き、自分の中に温もりが広がるのが分かった。

「セパンで降ります。」
おばあさんは怪訝な表情を浮かべる。私が切符を見せると、
「あぁ、セポーン。」と言う。
 私が読むとこのハングルは「セパン」になるのだが、おばあさんは「セポーン、セポーン」と繰り返す。おばあさんが周りにいる他のおばあさん達に伝える。「セポーンに行くんだってさ。」周りのおばあさん達も「え?」っていう顔を自分に向けてくる。そして口々に「セポーン、セポーン。」と呟いている。
 
 何なんだ、いったい。そこに行ってはいけないのか?そこに何があるのか?踏み行ってはならない場所なのか?呪いの地なのか?私は聞いてみた。
「セポーンはまだですかね?」おばあさんは黙ってうなずく。そして首を振りながら「セポーン」とまだ呟く。見回すとバスに乗っているおばあさん全てが私を見つめている。私の隣に座る小さく縮んでしまっているおばあさんが口を開く。
「あなた、どこから来たの?」
「日本から来ました。」
「日本人?」
「はい。」
「仕事で?」
「はい。高校で日本語を教えています。」
「高校?先生なの?どこで教えているの?」

 私は自分の暮らしている街の名前を告げる。だがおばあさんは考えるように首を傾げ、知らないという。私は自分の発音が悪かったのだと思い、もう一度その街の名を告げる。それでも首を振る。私は驚いた。私の暮らす街は確かにこの珍島からはずっと離れたところにあるが、それなりに有名な地方都市だからだ。
 
 
 私はバスに揺られながら、かつてインドを旅していた時に出会った一人の少年を思い出していた。
 彼は自転車屋で働いていて、いつも店先でパンク修理などを手伝っていた。私は石の階段に座りぼんやりとその少年の作業を見つめていた。痩せていて、ボロぞうきんのような衣服を体に巻き付けている。手や顔は油で汚れて真っ黒である。額に汗が浮かんでいる。    
 私と目が合うと彼は微笑む。真っ白な歯が見える。それ以来その道を通るたびにちょっとした会話を交わすようになった。彼とはお互いたどたどしい英語で話した。

 彼が私にどこから来たのだと聞いてきた。「ジャパンだ。」と言うと「知らない。」と言ったのだ。私は驚き、そこにしゃがみこみ砂地の上に簡単な世界地図を書いた。そして日本の場所を教えた。彼は頷いた。
 
 周りにいた子供達も何事かと集まってくる。どの子の服も真っ黒に汚れていて、つぎはぎだらけである。鼻の下には鼻水が固まっている。私はジェスチャーを交えながら話す。
「それじゃぁ、君らが今暮らしているインドはこの地図でどこだ?」
と聞くとみんな首を振る。わずかに英語の分かる自転車屋の少年も「分からない。」と寂しそうな顔をした。
 
 私は胸が熱くなった。行っていないのだ・・・。みんな学校に行っていないのだ。学ぶ機会が与えられていないのだ。私はインドを指さした。
「ここがインドだ。今我々はここにいる。」
と伝えるとみんな嬉しそうに笑う。どの子も私の話を真剣に聞くし、食い入るように砂の上に書かれた地図を見つめている。
「ニューデリーは知っているか?」
「知らない。」
「カルカッタは?」
「知らない。」
 
 私は砂地に描いた世界地図を消して、インドの簡単な地図を指で大きく描く。みんなそれをじっと見つめる。
「いいか、ここがカルカッタだ。そしてここがプリーだ。こっちは海だよ。」
そう言いながら、砂の上に魚と船の絵を描く。みんなは私を見つめる。そして何事かを囁き合いながら微笑む。私の絵を指さし笑う者もいる。
 
「今みんなはプリーにいるんだよ。分かった?プリーはここだよ。」
「分かった。」
自転車屋の少年が頷き、周りにいる子供達に説明している。子供達が笑顔になる。みんな私を見つめてくる。
「ここはインドのプリーだよ。みんな今ここにいるんだよ。私はジャパン。ジャパンから来たんだ。」
と言いながら自分の胸を指さす。みんなは嬉しそうに頷く。誰の目も光っている。そして私の一挙手一投足に注目している。
 子供達の「学びたい」という炎のような情熱が私の胸を突き刺したのを今でも覚えている。
 
 
 おばあさんが私を見つめ突然こう言った。
「ありがとうね。」
私は驚いた。どういう意味だろう。私はおばあさんに感謝されるようなことは何もしていない。落ちくぼんだおばあさんの目をじっと見つめると、おばあさんはこう言った。
「この国に来てくれて、ありがとうね。子供達をよろしくお願いします。」
そして私に頭を下げたのだ。私は急に胸の奥が熱くなってくるのを感じた。そしておばあさんに何も言えないでいた。

 バスが停車するごとに、おばあさんたちは一人、また一人と降りていく。こんなところで生きていけるのかと思えるような何もない場所でおばあさんたちは降りていく。そしてもう乗る者は誰もいない。
 
 やがてバスは、今にも崩れてしまいそうな傾いたあばら屋が二軒建っているだけのところに停車する。私の隣に座っていた小さなおばあさんは、そこでバスを降りた。席を立ち上がるとき、また私に頭を下げて言った。
「来てくれてありがとうね。よろしくお願いします。」
私も頭を下げて
「さようなら。お体を大切になさってください。」と言った。
おばあさんは微笑む。

 杖をつきながらゆっくりと歩くおばあさんに、あばら屋から出てきた灰色の犬がしっぽをふりながら近づいていく。

 バスの扉が閉まる。乗客は私一人きりになった。

 今、自分はどこにいるんだろう?


 

2013年1月15日火曜日

風のかたち

 チェジュドのハルラ山を登る。
 標高は1950メートル、韓国では最高峰である。韓国初の世界自然遺産にも登録されている美しい山だ。

 朝5時に起き、同僚の先生達とバスで登山口に向かう。
 昨夜はあまり眠れなかった。同部屋のカン先生ともう一人工業の先生は、どこかへ飲みに行き部屋には戻って来なかった。私が翌日5時起きであることを知っている二人は、私を誘わず早めに眠らせてくれたのだ。

 だが、もう一人の先生のイビキのうるささのため何度も目を覚ました。この先生は、以前このブログでも少し記したが、工業科の先生で、顔は完全にヤクザ顔で声もかすれていて恐ろしい。いつも必要以上に大声で話す。どの先生もこの先生には気を遣っているのがわかる。
 この先生が部屋の灯りをつけたまま、イビキをかいて寝ているのだ。そして何と全裸である。パンツさえはいていないのだ。その先生は私には親しくしてくれている。私に親しくしてくれている先生はどの先生も独特の個性を持った人たちばかりなのである。その先生の韓国語はほとんど聞き取れない。いつも大声でかすれていて、独特のイントネーションで話す。

 ヤクザ顔で全裸の男がイビキをかきながら、部屋の灯りをつけたまま自分のすぐ横で寝ているのだ。下半身の見たくないモノまで見える。なんとかしてほしい。カン先生ら二人が早く帰って来ないかなと思っていたが、結局二人は朝まで帰ることはなかった。

 今までいろいろな国のいろいろな人間と一緒の部屋で寝てきたが、その夜の危険度は三本の指に入った。そっちの趣味がある人ではないかとも思ったのだ。それでも多くの先生方から大量につがれ酔っていたので、浅い眠りにはおちた。


  山は雪に覆われていた。
 トレッキングシューズにアイゼンを装着する。ヘッドランプを着けている先生のあとに従い、暗い雪道を登っていく。ザックには配られた食料とペットボトル二本。
 それにしても他の先生方のフル装備を目にして自分は少し不安になっていた。アイゼンひとつとってみても、みんなは靴底全面を覆う12本爪のもので、自分は4本爪の軽アイゼン。ストックも持っていない。ゴーグルやサングラスも持っていない。自分は雪山が初めてなので、何を装備したらよいのかよく分からなかった。というよりも韓国の南に位置するこの山が、こんなにも雪が積もっているとは想像していなかったのだ。

 ずっと昔、ネパールの山を5500メートル辺りまでトレッキングしたことがあるが、あの時は雪が少なかった。こんな雪の中を歩くのは人生で初めてである。とにかく前の人についていくだけだ。


 あとは右膝がどこまでもつかなということだけだ。
 誰もが身体的に様々な弱点を持っていると思う。私はその一つに右膝がある。長い距離を歩いたり、登ったりを繰り返すと右膝の関節に痛みがはしり、曲がらなくなってしまうのである。右膝が固まり、激しい痛みを伴うようになる。そうなるとほとんど左足の筋力で進むことになる。右足は真っ直ぐのままひきずるようになり、左足の屈伸力を使い進んでいく。そのバランスの悪さからやがて腰や背中、肩や首にも痛みが広がっていくのである。
 もう20年以上もこの一連の流れは経験しているので、覚悟はできている。だが今回、もしそれが早い段階できて、途中で登山が続けられなくなったり、遅れてみんなに迷惑をかけてしまったりすることを心配していた。
 ただ幸いにも自然とグループは二つに分かれた。速いペースで登る者達と、ゆっくりとしたペースで登る者達・・・。私は後者に属し、一歩一歩登っていく。


 やがて朝日が昇り雪山が白く光り出す。
 昨日はどんよりと曇り、空は暗かったのだが。今日は青く明るい。そして風もない。

「ハルラ山は霧がかかって山頂が見えなかったり、風が強いことが多いんだけど・・・。こんなにいいときはめったにない。」
と一緒に登る山登りのベテランの先生が言う。その先生はペースを全くくずさず、ゆっくりとだが着実に登り続ける。私はその先生の後ろにぴったりとくっつき登っていった。

 高度1200メートルを超えたあたりから右膝に痛みがはしりだし、だんだんと曲がらなくなってきた。ここからは曲がらない右足を軸にして、左足の筋力で登っていくことになる。まぁいつものことだが、少し気が滅入る。というのは、登りはそうでもないのだが、下りは一歩一歩に右膝に激しい痛みがはしるようになることを分かっているからだ。

 何度か休憩をとりながら登りすすめていく。雪をのせた木々の枝がしなっている。針葉樹の葉先が白く凍っている。上を見上げると白く染まった樹木らの向こうに真っ青な空が見える。
 ふと下を見ると雲海が見える。もうすぐ頂上だ。最後の500メートルくらいは少し勾配が急であった。風も強くなってきた。山頂はすぐそこにあるのになかなか到達しない。


 登り初めて6時間近く、途中何度か待避所で休憩をしながらようやく山頂に到着した。どの先生方も笑顔。自分も笑顔。何故か笑えてくる。
「おい、オマエ鼻水がたれてるぞ。」
と体育のドゥマン先生が楽しそうに笑う。本当だ。10センチほどもたれている。つららのように・・・。笑える。

 空を見上げる。青い。どこまでも青い。
 山頂まで眺められることが少ないというハルラ山。今日は最高の状態で迎えてくれた。感謝。

 右膝のことを考えると、これから始まる下りには身震いがする。だが来て良かった。今日はハルラ山を登るメンバーと、登らないメンバーとの別行動の日であった。登る方を選んで本当に良かった。


 久しぶりに気持ちいい風を全身に受けとめることができた。太陽に光る雪の結晶がまぶしい。
 風がその結晶達を紺碧の空へと舞いあげる。それは風が自らの輪郭を表した一瞬の出来事であった・・・。

 ずっと以前、私はこの光景をどこかで見た気がする。この風のかたちのことをしばらく想う。
 確かに見た。・・・あれはどこだったんだろう?



 

2013年1月8日火曜日

ソウル 2013

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 もう2013年。スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』が制作されたのは、自分が生まれて間もない頃。
 キューブリックさん、もう2013年になりました。ですが私はどうやら宇宙空間を体験することなくこの世を去ることになりそうです。私の二人の息子達が生きている間には、もしかしたら自由に宇宙旅行ができる時代が到来するかもしれません。あなたがあの映画を今から40年以上も前に制作したということに感服いたします。あなたは2001年を迎えることなくこの世を去り、あなたが美術監督として迎えようとして断られたあの巨匠手塚治虫も21世紀を迎えることなくこの世を去りました。
 手塚治虫の作品群はもちろんのこと、キューブリックさん、あなたの作品も息子達にはいつか見てもらいたいと思っています。学生の頃出会った『2001年宇宙の旅』『時計仕掛けのオレンジ』『シャイニング』『フルメタル・ジャケット』等々は今でも忘れられません。はっきり言って、今でも身体のずっと奥に恐怖の核のような物として残っています。

 2013年、さてどんな年になるんだろう。自分はどちらの方向に歩いて行くんだろう・・・。

 1228日まで勤務があり、29日に釜山で家族と合流。すぐKTXでソウルへと向かう。    
 旅行計画は全て家族に任せてある。私は旅行の「計画」をたてることがとても苦手なのである。だから一人旅の時はその場その場の直感で動く。そのために今まで多くのものを見逃してきた。
 
 アジアを一人でまわっているときにも、出会った旅人達によく言われたものだ。
「オマエ、あそこに行ったのにあの遺跡を見なかったのか?」
「え?あそこまで行ってあの寺に行かなかったの?」
「あの有名な風景、やっぱりすごいよな。え?行ってないって?」
「祭りは楽しかったか?え?行っていない?知らなかったって?」
・・・と言う具合だ。そしてどの旅人も私に決まってこう聞く。
「それでそこでいったい何をしていたんだ?」
 
 何をしていたのか・・・?何をしていたんだろう?特に何もしていない。朝起きて「今日どうしようか。」とぼんやり考え町をぶらつく。それだけだ。いいにおいが漂ってきたらその店に入る。目的もなく歩き、暗くなれば安宿に戻る。薄汚れたベッドに寝転び、天井を見つめる。町の喧噪に耳を澄ます。そして何か、自分の中で思いが自然と湧き上がってきたら、次の町へと移動する。そうやって大陸を少しずつ移動していた。
 

 あれから長い歳月が経った。
 だが、今でもあの市場の雑踏や、沐浴する人々、道で蠢く両手足がない胴体だけの男、砂漠の熱風、鳴り響くクラクションの渦、緑色に光る瞳を持つサドゥ、踏みしめた雪の感覚、青と白の無音の世界、天高く舞い上がる砂塵、網を引く男達の黒く光る背中、茶色に濁る巨大な河、路上で生活する人々のはち切れんばかりの笑顔、暗闇の中に揺れる炎、人の肉を食う犬、湿地をゆったりと闊歩する野生馬、世界中の旅人達との乾杯、黄金色に輝く巨大な氷の塊、一緒になって井戸水を汲み上げた少女の瞳、揺れる椰子の木、紫色に染まるさざ波、草原を渡る爽やかな風・・・それらをふとしたときに思い出す。
 ・・・というよりも、それらの皮膚感覚的な記憶が体の底から突然湧き上がってくるのである。
 
 
 そういえば友人のKが言っていた。「俺は時々、旅してきた異国の地の風景や空気みたいなものを意識的に思い出すようにしている。」と・・・。何故「意識的に」そんなことをしているのか、その理由を彼は言わなかった。

 高校時代、私が部活だけに情熱を燃やしているとき、彼はアルバイトをして資金をつくり、ザックに寝袋を詰め込んで自転車で日本を縦断していた。
 大学時代、私の下宿にKからのハガキが届いた。インドからのものであった。

 彼と私は同じ大学を目指していたが、彼はその大学に現役で合格し、私は浪人した。翌年、私の合格を聞き、彼がものすごく喜んでくれたことを今でもはっきりと覚えている。私は頻繁にKの下宿を訪れ、様々なことを語り合った。彼は私の何倍も多くのことを知っており、すでに世界各地を巡っていた。
 
 Kとはもうずいぶんと長い間会ってはいない。私の結婚式の2次会が終わり、暗い街角で握手をしたのが最後である。だからもう15年ほど会っていない。年賀状のやりとりで、お互いがとりあえずなんとか生きていることだけは分かっている。
 Kはいつも私の半歩前を歩いていたのだと思う。そしてきっと今もそうなのだと思う。私は今でもKの斜め後ろを歩いている気がする。Kは今、何に向かって歩いているんだろうか?
 

 今年も年末年始は家族とソウルで過ごした。
 家族がたてる旅行計画は、私に言わせると完璧である。1日の予定が盛りだくさんでとても充実している。いわゆる「満喫」できるものである。
 食事に関しても、これでもかというくらい韓国の美味い物ばかり食べまくった。「悔いなし」といったところか。
 「計画」が苦手な私には、身内ながらため息が出る。毎度のことだが、よくこれだけ楽しめるような計画をたてられるものだと・・・。私には到底無理である。


 家族旅行では、とにかく私は全てを任せている。口を挟むとろくなことがないからだ。任せていた方が楽しいし、様々な経験ができる。
 今回は個人的には特にプッチョンハノンマウル(北村韓屋村)が良かった。雪をいただく伝統家屋の連なりは美しかった。

 凜とした空気が気持ちよかった。おばあさんの淹れてくれた熱いコーヒーが身体全体に染み渡った。
 ソウルは今、最高気温もマイナスの世界なのである。

 寒さが、ほどけそうになる思考をまとめてくれる。

 私の隣では二人の息子達がソウルの雪景色を見つめながら熱いココアを飲んでいる。
 彼らの瞳は、これからどんなものに出逢うのだろうか・・・。