2012年8月26日日曜日

2000億光年の眼差し

 入り口の端に座り一人の男がタバコを吸っている。店に入ると他の客は誰もいない。
 私は最近、ゴミ清掃のおじさん達が集まる時間を避けてこの食堂に来ている。理由は一つ。私がいるとみんなに気を使わせてしまうからだ。
 おばさんに挨拶を言い、席に着く。テレビではニュースが流れている。黒い作業着を着た男が一人入ってくる。おばさんが朝食を運んできてくれた。ニュースでは豪雨のため土砂災害があったことを告げている。黒い作業着を着た男が食事をしながらじっと画面を見つめている。

 私は嫌な予感がした。未来に対するこういう空気の微妙な変化は誰もが感じるものだと思う。そしてその空気のわずかな揺れは現実を引き寄せる。
 次のニュースは領土問題と慰安婦についてのものだった。黒い作業着の男が食事を辞め、じっと画面を見つめる。私も箸を止め画面に目を向ける。
 ある日本人がソウルの日本大使館前にある慰安婦像(韓国では追軍売春婦像)に「竹島は日本固有の領土」と日本語とハングルで記された杭のようなものを置く様子が映される。他にも様々な映像が流れる。


 男が舌打ちをする。そして日本の批判を始めた。私は下を向いて、ただ食べ続けた。だが男に呼びかけられる。顔を上げると男は私を指さしている。
「おい、日本に帰れ。そして言え。」
・・・何を言えというのか?私は男の目を見つめる。男は私から目をそらし画面を見つめながら大声で何かを言う。

 店の入り口に座ってタバコを吸っていた男も入ってくる。そして私の近くに立ち、何事かを語り出す。
 食べ物がだんだん喉を通らなくなる。だが私は食べる。おばさんがせっかく作ってくれた朝食だ。私は下を向いて食べ続ける。
 画面に目をやると日本の政治家たちが映し出されている。黒い作業着を着た男は画面を睨み付けている。そして時々何かを呟く。私の隣に立つ男はなおもずっと何事かを言い続ける。

 私は食べる。食べ続ける。何を食べたかは今思い出せない。咀嚼し、飲み込む。私は「食べる」という行為に没頭することで、かろうじてそこに居続けることができた。

 ニュースは別のものになった。黒い作業着を着た男は険しい表情のまま食事を始めた。私の横に立つ男はまだ何事かを語っている。分かる単語は「独島」「大統領」「日本」「日本人」「悪い」「我々の国」「近くにある」「昔」「学校」「若い人」・・・それぐらいだろうか。だが語気は荒い。

 私は食べ終わり立ち上がる。黒い作業着を着た男は私の方をもう見ない。私の横ではまだ男が語り続けている。だが、私の方を見ないようにしている。誰もいない宙を見つめながらしゃべり続けている。
 おばさんに「ごちそうさま、ありがとう。」と声をかける。だがおばさんにいつもの笑顔はない。表情が強ばっていた。
 私はうつむいたまま店を出る。立っていた男が歩み寄り、私の背中に言葉を投げつける。私は一瞬立ち止まり、迷ったが振り返らずに歩みを進めた。

 
「この星に出会った時は驚きました。」
「ふむ。」
「暗黒の中に消え入りそうな青い光が見えたときは、思わず声をあげました。」
「そんなに美しいのかね。」
「はい。時空を超えて長い間探査を続けてきましたが、これほど美しい星に出会ったのは初めてのことです。」
「ほう。」
「ただその青い光は今にも消え入りそうで・・・暗黒世界に浮かぶ一粒の涙のように、それは消え入りそうで・・・。」

「生命体は存在しているのかね。」
「はい、多種多様の生命体が存在しています。」
「いくつめだったかなぁ。」
「生命体が確認できた星はこれで7つめです。ただこれだけ水があり、大気が安定しており、これほどたくさんの生命体が存在する星は、今までありませんでした。我々の星も含めて他の全ての星は過酷な環境ですからね。」
「うむ、そうだな。そうか、そんな星がとうとう見つかったのか。」
「はい。この時空を超えた探査、無駄ではありませんでした。」
「そうだな。そろそろ帰還を考えてもいいんじゃないのか。そんな素敵な星の存在を知ることができたんだ。それだけで充分だろう。」

「ただ気に掛かることがあるんです。」
「ん?どうしたんだ、何か問題でもあるのか?」
「はい。生命体の中に直立二足歩行をするものがいます。そして我々と同じように文明を築いています。しかしテクノロジーにおいてはまだまだで、我々の足下にも及びません。」
「まぁ、いいじゃないか。そんな素敵な星で幸せにやっているのなら。」
「そうとも言えないんです。」
「そうとも言えない?」
「はい。その生命体はいくつかの種別があり、それぞれが固有の文明文化を築き合っています。」
「ほう。」
「そしてお互いが競争し、ぶつかり合い、時には殺し合ったりまでするのです。」


「なるほど・・・。そういえば我々の星もずっと昔にそのようなことがあったと聞いたことがある。」
「はい。ただ驚くのは星全体に見えないラインを引きまくっていることです。」
「見えないライン?」
「はい。陸にも海にも地下にも、そして空にも・・・。」
「何のために?」
「お互いの利益を守るためです。例えば様々な自然資源の所有権を主張するために。」
「いったい何のことだ?その星の自然資源はその星に生きる全ての生命体のものだろう。他の生命体からの許可はとっているのか?」
「いえ、自分たちだけで勝手に決めています。」

「何故?何故他の生命体と話し合わない?」
「彼らは我々のように他の生命体と交信するすべがありません。そして自分たちだけが万能だと思っているようなのです。」
「万能?自分たちの生きる星に見えないラインを引きまくり、未だに殺し合いをしている生命体が、万能?」
「はい。彼らは自分たちのことを特別だと思っているようです。そして他の生命体を自分たちよりも下等なものと位置づけています。」
「うむ。それで彼ら以外の生命体は何と言っている?」
「植物、微生物を含めた全ての生命体と交信をとりました。」
「それで?」
「結論を言います。あの直立二足歩行の生命体は、この星のためには不必要な存在だということです。特に彼らが出す放射能を初めとする様々な有害物質には、植物や微生物が心を痛めています。」
「どういうことだ?」
「自分たちが浄化することができる限界を超えていると・・・。このままではこの星の終わりは近いと・・・。」


「そうか・・・。それでその直立二足歩行の生命体は何と言っている。」
「それが・・・交信できないんです。彼らとは・・・。」
「何故だ?そんなことはあるまい。我々はあらゆる生命体と交信するすべを持っているじゃないか。」
「はい。しかしできないんです。こんなことは初めてです。・・・もしかしたら彼ら自身が、自分たちは万能であり、全ての生命体の頂点にいるというその心象が、厚い壁になっているのかもしれません。」
「うむ。・・・そうかもしれんな。」

「動いてもよろしいでしょうか?」
「え?」
「彼ら以外の全ての生命体が、彼らのことを不必要だと言っているんです。今、我々が動かなければ、この星は滅びてしまうかもしれません。」
「だめだ。動くことは許可できない。」
「しかし・・・。」
「我々はこの大宇宙の隅々にまで時空を超えて探査を行っている。だが、一つの大事な取り決めをしたはずだ。他の生命体には絶対に干渉しないと・・・。その星のことはその星の生命体でなんとかしなければならない。そのことを忘れたわけじゃあるまい。」
「もちろん忘れてなんていません。しかし、この奇跡のような星がなくなるかもしれないんですよ。」


「もしそうなら・・・、もしそうなってしまうのなら、それは仕方のないことだ。」
「あの直立二足歩行の生命体に、この星の運命を託すんですか?彼らはそれぞれが見えないラインの中の幸せばかりを考え、お互い神経をとがらせ、殺し合いさえする生命体です。そして他の生命体の声を聞こうとはしません。」
「うむ。だが、我々の星のことを考えてみろ。かつて我々の星もそうだったと聞く。だがそれを乗り越えてきた。だから・・・見守ろうじゃないか。」
「見守る・・・。」

「そうだ。そうするしかない。君の一部をその星のどこかに置いておきなさい。もしそれを感じることができるものがいれば、その声の意味を考えるだろう。そして、次の一歩を踏み出すはずだ。私たちは見守り続けようじゃないか。君はもう帰還したまえ。帰りも長旅になるが、君とふたたび会えることを楽しみに待っているよ。帰ってきたら聞かせてほしい。この大宇宙の様々な星に生きる生命体の話を。・・・命の話を・・・聞かせてほしい。」

 

2012年8月19日日曜日

夏、海風に包まれて

 日本から三週間ぶりに韓国のアパートに戻る。
 博多までは家族が車で送ってくれた。博多から高速艇で釜山の港へ。そこからタクシーで高速バスターミナルのあるササンへ。

 タクシーの運転手は日本語ペラペラのヤンさんという運転手だった。13年前から日本語を学んでいるという。
「日本語お上手ですね。」
「そんなことありませんよ。」
「どこで勉強したんですか。」
「ここです。車の中で勉強しました。」
そうか・・・客待ちの時間を利用して勉強し続けてきたのだ。独学で13年間・・・。ここにもまた見習うべき人がいる。いつも師は身近にいるものだ。

 ササンからチンジュ行きのバスに乗る。
 ぼんやりと流れる景色を眺めながら過ごす。ピンク色に染まっていた空がやがて濃い紫色へと変わっていく。チンジュのバスターミナルからまたタクシーをひろい、アパートへ。一日がかりの行程である。


 ドアを開けると熱気のこもったよどんだ空気がそこにあった。
 台風が来るかもしれないので全ての窓を閉め切ってでかけようと思ったのだが、トイレの窓だけ数㎝だけ開けておいた。室内に熱がこもりすぎると思ったからだ。だがアパートの空気は死んだように動きを止めていた。

 私はすぐに一番気になっていたものに目を向ける。そして声をあげる。工業科の先生からもらった多肉性植物。全ての葉を落としていた。帰国する前、たっぷりと水を与えたのだが、この部屋の熱気に耐えられなかったようだ。どの葉も枯れているというよりは、焦げているように真っ黒で、さわるとカサリと崩れてしまった。茎だけはまだかろうじて生きているようにも思える。乾ききって熱を含んでいる土に水を与える。
 窓を開け、扇風機と換気扇を回し、新しい空気を部屋に取り込む。シャワーを浴びた後、買ってきたビールの栓を開け喉を潤す。
 茎だけになった多肉性植物もこの部屋もそして自分もほっと一息をつく。


 朝起きていつもの食堂に行く。
 少し時間をいつもよりずらして行った。テレビのニュースではひっきりなしに竹島・独島の問題をとりあげていたため、そのニュースが終わってからアパートを出た。おばさんは私が店に入ると、大きな声を上げ満面の笑みになった。
「お帰り、久しぶりだねぇ。」
「こんにちは。」
「会いたかったよぉ。」
「またよろしくお願いします。」
「あーホントよく来たねぇ。お茶、冷えたの出すね。」
私はホッとした。韓国ではいつもこのおばさん達の笑顔に救われる。

 昼には市場にでかけた。
 ここをのんびりと歩くと何故か気持ちが落ち着く。野菜、魚、肉、果物、様々な乾物や惣菜、食器や衣服、そしてそれらを売るアジュンマ達。様々な色と臭い、そして音がチャンプルになって体をやわらかに包み込む。


 細い路地をゆらゆらと歩く。市場の中のほとんど人通りのないところにある小さな食堂に入る。テーブルが三つ。おばさんが一人でやっている。「テジクッパチュセヨ。」というと豚肉の煮込みと様々なキムチや惣菜が運ばれてくる。
 市場に来たときは時々この食堂に入る。いつも食事時を避けて行くので、今日も客はいない。私一人だけだ。

 このおばさんは私のことを信用しきっており、いつも私が食事を始めるとどこかに行ってしまう。自分の用事のために出かけてしまうのだ。他のお客だって来ることもあるし、売上金だってそのままである。私が悪人だったらどうするのだ?
 だが、おばさんはいなくなる。食べ終わっておばさんが帰ってくるのを待つこともある。店番をやらされているようなものだ。
 やはり今度もおばさんはいなくなった。ここまで異国人を信じるっていうのもなんだか凄味を感じる。そしてこちらも信じられる気持ちよさがある。店の前でしばらく待っていると、「ごめんね。」と笑いながらおばさんが路地の奥から歩いてくる。
 私はおばさんから「この男は大丈夫。」と思われているようなのだ。まぁそれもいいだろう。とにかく韓国ではアジュンマ達に救われているのだから。


 この夏、日本ではいろいろなことをしようと思っていた。だが結局何一つ手をつけることなく終わった。日本の夏にどっぷりと浸かってしまった。

 朝、私は一番に起きる。ゴミ出しに出る。ぞうりを履き、田んぼに挟まれた道を歩く。朝日がまぶしい。空が高く広い。雲が朝焼けに染まっている。海からの風が心地いい。
 家に戻り、ご飯を炊き、味噌汁を作り、魚を焼く。ネギを刻み、納豆をまぜる。家族が起きてくる。みんな夏休みなのに予定がびっしりと入っていて忙しい。何もないのは私だけだ。
 家族を送り出し、風呂を洗い、洗濯をして食器を洗う。コーヒーを淹れ、新聞を開く。テレビをつけてオリンピックを見る。子供の送迎があるときもある。久しぶりの車、慎重に運転する。
 庭に出て草をむしる。除草剤をまく。伸びた枝や蔓を剪定する。

 食材を買いに行く。昼に次男がいるときは一緒に食事をし、その後昼寝をする。海風にあたりながら体を伸ばす。次男は本当によく寝る。そしてよく食べるようになった。
 長男は合宿や試合がたくさん入っており、妻は仕事で忙しい。だからかろうじて自分と時間がとれるのは次男だけだ。
 ウッドデッキのペンキを塗り直す。車のタイヤ交換をする。魚たちの水槽の掃除をする。子供達の自転車の整備をする。

 次男と格闘ゲームをする。海に行き一緒に泳ぐ。小魚の大群を二人で追い込む。
 スイカを切り、一緒に食べる。
 風呂に二人で入り、いろいろと話をする。その後、冷えたビールを飲む。

 この夏そんなふうにして毎日を過ごした。


 痛めていた肩や首がいつのまにか治っていた。強ばっていた心もほぐれた。日本の夏が癒やしてくれた。

 さて新学期が始まる。残り半年、笑顔で頑張れたらと思う。
 それにしても時が過ぎるのは早い。泣けるほど早い。歳と共にその加速度は増していっているように思う。

 一日一度、空を眺めようと思う。