2011年12月27日火曜日

明日で授業は終了。29日から冬休みに入る。
  11月から全ての授業を単独で行うことになり、いろいろとうまくいかないことが多くなった。言葉が不自由なのでクラスコントロールが難しい。だが生徒達の協力もあり、なんとかここまでたどり着けた。はっきり言って自分自身、これはいい授業だったと思えるものはなかった気がする。それでも生徒達は付き合ってくれた。そしてたくさん助けられた。


  放課後授業の方は少人数制ということもあり、いろいろ実験的なことを行った。このメンバーとは一緒にバスに乗って街に出て食事をしたり、日本に手紙を送ったりもした。

出会ったころは「こんにちは。」しか言えなかった生徒が、今ではゼスチャーを交えながら私と日本語でコミュニケーションをとる。・・・若い脳みその力は恐ろしい。

日本の女子高生あてのラヴレターの添削等もした。ラヴレターを書いたこの生徒は、交流事業で本校に来校した日本のある女子高生に惚れてしまったのだ。そして日本語でラヴレターを書き上げた。めちゃくちゃな日本語だったが、彼の熱い思いが一文字一文字に宿っていた。心を込めた手書きの文字には魂が宿る。そう確信した。・・・恋の力は恐ろしい。


  今年の漢字が「絆」になったということをネットで知った。3月のあの震災が、あらためて人と人との関係を見直させたのだと思う。家族を突然失った方々の深い悲しみは「時間」だけしか癒すことができないと思う。それは経験的に分かる。

今一人、異国の地で教壇に立っていて、「 」という言葉の重みをひしひしと感じる。


   韓国の私の職員室の机には「絆」と記された湯呑みがある。日本から持ってきたものだが、今はペンたてとして使っている。これは部活動の生徒らが、卒業していく時に色紙と一緒にくれたものだ。渡航前荷造りをしている時、ふと思いがよぎり、旅行かばんの中に入れたのだ。

 今まで関わってきた部活動は、どれも自分が経験したことのない競技ばかりであった。だから自分は見続けることしかできなかった。そして時々、気合を入れるために声をかけるだけであった。生徒たちは自分達で練習メニューをたて、それをこなし、どんどん成長していく。人間としてもどんどん大きくなっていく。それを近くで見ていて肌で感じた。私が頼りない分、生徒達は自立していった。指示を待たない。何も求めない。自分達で考え動く。そんな姿を毎日ずっと見続けていた。「こいつらすごいな。」と心の中でつぶやくことがたびたびあった。そして練習中にも試合中にも見ていて胸が熱くなることがよくあった。


 部活で関わった生徒たちだけでなく、担任をした生徒達や授業で関わった生徒達からも多くのことを学んだ。・・・今まで出会った生徒たち、みんな元気でやっているかな?しんどいことも、悲しいこともあると思うけど、全てが自分の財産と思って乗り越えていってほしいな。そのためにも健康であってほしい。しっかりと寝て、食べて、そして動くべし。
 我々もドウブツなのだから・・・。ドウブツとは「動く物」と書きます。動き続ける人であってください。


年末年始は家族と韓国で過ごします。1月にはしばらく一時帰国します。
 

 今年一年ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

 2012年が皆さんにとって素敵な年になりますように。


2011年12月20日火曜日

四人の女帝達

1219日月曜日、朝、いつもの食堂で朝ご飯を食べているとき「金正日総書記死去」のニュースがながれた。食堂のアジュンマ(おばさん)もゴミ清掃員のアジョッシ(おじさん)達もニュースを見入っていた。朝鮮半島の歴史が変わる。動く。この歴史の転換期に朝鮮半島に暮らしていることに運命を感じる。しっかりと現場の空気を味わいたいと思っている。


  「この学校にはものすごく強い女性教員が三人いる。校長先生や教頭先生も恐れている。」・・・あるときキム先生がそう教えてくれた。

一人は美術の先生、小柄だがものすごいオーラを発している。ファッションも個性的だ。笑い方が印象的でクククケケケケケーと大声で笑う。私にはハロー、センキューといつも英語で声をかけてくる。といってもこの二言だけだが。授業中態度の悪かったらしい複数の生徒らを廊下に正座させ、一人ずつ頭をひっぱたいていたことを目撃したことがある。

もう一人は保健の先生、体格がいい。明らかに運動能力が高そうな雰囲気を醸し出しており、女性版長嶋茂雄といった趣がある。体育の男性教員が肋骨を何本か折った時にも余裕の笑顔で対応していた。このあいだ職員会議の時、一人離れたところで腕を組みふんぞり返っていた。とても迫力があった。

そしてもう一人、1日1000人分の食を支えている食堂長。体格が良く、食の番人といった趣がある。私が昼食をとっているとき、「お口に合うかしら?」とよく聞いてくる。私はたとえ辛さのために舌が痺れていても「おいしいです。」と満面の笑顔で言うことにしている。食堂長のただならぬオーラがそうさせるのだ。だが本当においしいのは事実である。          

この三人には学校のみんなが気を遣っているのが何となく分かる。


 だが、もう一人最強の女性がいるのだ。学校の全ての教員が一目置いている女性教員がいるのだ。・・・それがキム先生なのである。キム先生は自分が最強であるという自覚が全くない。

キム先生は学校中の誰からも好かれている。飲み会や食事会ではいつもキム先生が中心となる。何故かみんなが彼女を囲むように座る。そして校長先生も教頭先生もキム先生と話す時には不自然なほどの笑顔になる。いつもは二人とも鋭い目つきをしているにもかかわらず・・・。生徒にも恐れられ、そして慕われている。授業中寝ている生徒には、頭をたたいたり、耳や頬をつねったり、肩でタックルしたり、後ろに立たせて両手を挙げたままにさせたりする。

車の運転もすごい。私はキム先生の車の後部座席で、何度も天井に頭をぶつけたことがある。道のど真ん中でUターンをくり返す。それも携帯で誰かと話しながら、片手で悠然とやってのける。強面のタクシー運転手の激しいクラクションにもおかまいなしだ。


 工業科の男性教員達からも慕われている。工業科の先生で明らかにその筋の風貌をした先生がいるのだが、私とキム先生が歩いている時、その先生が何か声をかけてきた。強面だし声もドスが効いていて恐ろしい。ところがその先生の言葉を聞いたキム先生はいきなりその人のケツを蹴り上げたのだ。その「韓国マフィア」のような工業の先生は悲鳴をあげていた。だが明らかにその先生もキム先生のことが大好きなのである。

飲み会の時、「この学校のボスはあんたの隣にいる人だから。」とみんなが私に向かって言ってきた。みんなから「姉さん」と親しみを込めて言われている。ものすごく世話好きでいつも他人のために親身になって動く。ケチケチしていなくて、太っ腹である。

二人の娘がいるのだが、おもいきり自由に育てている。長女は日本に留学後、フランスに渡りファッションの勉強をしていて、英語、フランス語、日本語が堪能である。次女は宇宙科学を学んでいる。この娘さんとは二度ほど飲む機会があったのだが、「NASAに入るのが夢。」と言ってのけた。彼女ももうすぐフランスに渡るそうだ。・・・二人ともやはりキム先生の血が流れているのだ。


  四人の女性とも50代のようだが、共通点がある。
 目が輝いていて何故か少女のようなのだ。大人っぽく無く、感情の赴くままに動いている。理性よりも思いが先に走ってしまっているような・・・いや・・・うまく言えない。言葉で表現するのは難しい。

 まぁとにかく、私にとっては素敵な大先輩達なのだ。


2011年12月4日日曜日

風呂

部屋にはシャワーしかない。
まぁ韓国では普通のようだが、湯船につかってボーとしなければやはり1日の疲れはとれない。
シャワーというのは車で言えば洗車のようなものでそこには「物思ふ時」がないからなんとも味気ない。シャワーは嫌な思いを洗い流すには最適だが、何かをのんびりと思うことはできない。何もかも全て排水溝へ流れていってしまうから。


熱い湯にゆっくりつかりたいなぁ~と思いぶらぶら街を歩いていると突然建物から髪を濡らした女性が出てきた。カゴを抱えている。カゴにはシャンプーらしきものが見えた。女性は早足で行き過ぎていった。
その建物の前に看板がある목욕と記してある。「沐浴」、つまり風呂のことだ。そうか、銭湯か。そうだよなぁ~、みんなゆっくりと熱い湯につかりたいよなぁ~。
これは運命だ。・・・私は人が偶然と思うようなどうでもいいような出来事をすぐ運命と結びつけてしまうところがある。まぁ私自身はいつも「偶然」とは思っていないのだが・・・。
あの女性が銭湯に呼んでくれたのだ。きっとそうなのだ。


何の用意もないが、まぁなんとかなるだろう。
入り口が二カ所あり「남탕」・「여탕と記してある。「男湯」・「女湯」・・・なんだ、日本と同じじゃないか。
남탕」の扉から入る。すぐに壁があり、小さな窓が地上50センチほどのところに空いている。女湯の扉から入っても結局は同じだ。入り口の扉はご丁寧に二カ所もあるが、扉を開けるとすぐこの小さな窓がある。窓をのぞき込むと狭い部屋があり、人の良さそうなハルモニ(おばあさん)がテレビを見ながら座っている。私と目が合うと「オソオセヨ(いらっしゃい)」と言う。「オルマエヨ?(いくらですか)」「4500ウォン」
・・・お金を払い、引き戸を開けると私は思わず顔がほころんでしまった。全く同じなのだ。日本の銭湯と。
他の客はいなかった。タオルもおいてある。おぉ!石鹸もあるじゃやないか。手ぶらでも大丈夫だったな。小さいがサウナまである。
・・・本当にすっきりした。ずっと体がポカポカしたままで、部屋に戻るとあまりの気持ちよさにそのまま眠ってしまった。
その日以来、時間があるときは銭湯に足を運んでいる。


 東京で暮らしたちょうど10年間、ずっと風呂なし・トイレ共同の安アパートを転々としていたから銭湯通いをしていた。
友人達もみんなそうであった。トイレが部屋についている者もいたが、みんな風呂なしの部屋に暮らしていた。誰もが金銭的な余裕がなかったから、毎日銭湯に行けるわけではなかった。
ヤカンで湯をわかしそれを水で薄め適当な温度にして、裸になり流し場で体を洗ったりなんかもしていた。


ずっと昔、中国のウイグル地区を旅しているとき、2週間以上風呂にも入れずシャワーも浴びられなかったことがある。
 敦煌行きの列車の中で出会った大分県別府出身のオオノさんと、こんな会話をしたのを覚えている。
 「ねぇオオノさん、今何がしたい?」「風呂に入りたい。」「どれくらい入っていないの?」「忘れた。」
 二人とも安宿ばかりを巡ってきたので風呂とは縁がなかったのだ。
 「オオノさん、ちょっと金使って風呂のあるところに泊まろうよ。」「ああ。」
 そして、砂漠の中のオアシス、敦煌に到着。
 久しぶりに湯船に浸かった。じゃんけんで勝った自分から。
 ・・・「極楽」とはこのことだ。皮膚が剥がれるような心地よい感覚がある。脱皮ってこんな感じがするのかなと思ったりもした。
あまりの気持ちよさに私はずっと叫びながら熱い湯に浸かっていた。あんなに叫びながら風呂に入ったのは初めてである。
 「気持ちよかったか?」「うん、極楽。」「極楽かぁ~。」「早く入ってきなよ。その後は冷えたビールで乾杯ね。ゴクラク、ゴクラク~!」なんだか歌うように話してしまう。
 オオノさんは満面の笑顔になり浴室に入っていった。
 しばらくするとウォーというオオノさんの叫び声が聞こえてきた。

体験からの言葉・・・「人は本当に気持ちいいとき、叫ぶようである。」


2011年11月20日日曜日

決めたこと

うーむすごい。思わず唸ってしまった。この間文化祭が行われたのだが、生徒達はなかなかやる。勉強のときは元気のない生徒達だが、行事は燃えるようだ。まぁ自分たちの高校時代とほとんど変わらない。勉強は嫌いで学校行事や部活は大好きというところが。


  クラスは入学時の成績のいい者、よくなかった者がかためられている。クラス替えはしない。キム先生もイ先生も「このクラス編成は良くない。」と言っていたが同感である。

成績の良いものがかためられているクラスはみなとても意欲的でクラスの雰囲気もよく、いつも授業は楽しく和やかな雰囲気で行われる。日本語の定着もとても良い。質問も挨拶もとても良くする。キム先生はよく出張が入り、その時は一人で授業をするのだが、生徒はいろいろと協力してくれる。日本語、韓国語、英語を交えながら授業を進めるのだが生徒が温かく授業に参加してくれるため笑顔のまま授業を終えることができる。


 だが一方、成績の良くないものがかためられているクラスにはイ先生と一緒に行くのだがなかなか大変である。そのクラスは3人退学し今27人の在籍なのだがいつも5人以上欠席していたり校外に出てしまっていない。このあいだ文化祭前の授業では半分くらいの生徒がいなかった。

この学年だけではないのだが、授業中学校を抜け出しインターネットカフェに行ってゲームをしていたり、路地裏で集団でタバコを吸っているものがいるのだ。地域からも苦情が入ったため、「生徒を校外に出さないように徹底すること。」という伝達が何度かあった。タバコはかなり問題になっていて「3年生のトイレがタバコの大量の吸い殻のため詰まってしまった。」などのメールがよく入ってくる。

毎回熟睡していて全く起きない生徒がこのクラスには何人かいる。この生徒たちは他の授業もずっと寝ている。本当に死んだように熟睡している。生活リズムが完全に逆転していて、昼学校で寝て、夜に活動しているのだ。寝ていても全教科0点でも進級できるとのこと。ただし欠課時数、出欠時数は厳しいようなのだ。つまり彼らは出席するために学校に寝にくるというわけだ。油断をすると他の生徒もどんどん寝てしまう。教室にはごみがたくさん落ちている。教科書は半分くらいの生徒が持ってこない。筆記用具さえ持っていない生徒が何人もいる。喫煙でクラスの半数以上の生徒が指導を受けている。・・・このクラス、半端な覚悟では授業はできない。


 このあいだこのクラスで別の教科の授業中に殴り合いのけんかが起き、そのことで学校に呼ばれた生徒の保護者が長時間に渡って職員室で学校の批判を大声で話していた。担任は女性の英語の先生でとても悩んでいる。

殴り合いのけんかは別のクラスでもあり、ある時キム先生と授業に行くとクラスがいつもと違って異様な雰囲気になっている。床に血が流れていて瞼がひどく腫れた生徒がいたのでけんかがあったことが分かった。些細な言い合いから殴り合いまでいってしまったようだ。まぁでも日本の工業高校に勤めている時にもケンカはよくあったから同じようなものだ。


日本語の授業ではいつも穏やかで優しいイ先生もこのクラスでは厳しい表情になっている。私はこのクラスで自分に何ができるんだろうと考えてみた。そして決めた。「どんな状況になっても全員の生徒に温かく笑顔で接すること。」「一時間の授業時間内に全員の生徒とコミュニケーションをとること。」「どれだけ起こしても起きない生徒にも肩に手を置き語り掛けること。」今これを実行している。

ある時授業中、このクラスの生徒同士がけんかになりそうになったことがあった。二人の間に入り二人の肩に手を置き笑顔で「大丈夫?」と韓国語で語りかけながら暫らくそばにいると生徒たちの高ぶりもおさまった。

そして会話練習では一人一人隣に行って全ての生徒に行っている。一言でも言えた生徒には必ず褒めることにしている。イ先生もいつからか私と一緒に生徒の中に入り個人個人とコミュニケーションをとり会話練習をされるようになった。少しずつだが変化は現れている。発話練習でも声が大きくなってきた。道で会っても挨拶する生徒が増えてきた。自分の決めたことを信じて続けていこうと心に決めた。


 だが、 教員として情けないのだが、このクラスの授業が終わるとふらふらになっている自分がいる。職員室の自分の机にもどるとぐったりしてしまい、暫らく何もできないでいる。

そんな時ふと仲間のことを思う。今この瞬間にも、日本、ドイツ、オーストラリア、ニュージーランドで頑張っている自分の仲間がいる。仲間達も異国の地で教壇に立っているのだ。

みんなのことをしばらく思う。そうすると何故か体の底からほんの僅かだが充実感が湧き上がってくるので不思議である。



2011年11月13日日曜日

生徒達・・・

 素直で温かい生徒が多いように思う。よく挨拶もする。ひょうきんな生徒、やんちゃな生徒いろいろいる。
私は「~先生」ではなく「~ケン」とフルネームで呼び捨てで呼ばれている。キム先生が何度か「先生」と呼びなさいと指導していたがほとんどの生徒が「~ケン」と呼ぶ。ちなみに教頭先生や何人かの先生方も呼び捨てで呼んでくる。
まぁ我々日本人も外国人を結構呼び捨ててしまっているところがあると思う。他人からフルネームで呼び捨てられることなど初めてなのでなかなか新鮮ではある。


 「アンニョハセヨ」と挨拶をしてくる生徒が多いが、生徒にはできるかぎり日本語で対応することにしているので「こんにちは」と挨拶をしてくる生徒が増えてきた。
 ただ何回も会っているのに「はじめまして」と挨拶してくる生徒もいるし、朝なのに「こんばんは」と言ってくる生徒もいる。
 「~ケン、はじめまして、今何時ですか?」といつも時間を聞いてくる生徒もいる。この生徒はおもしろくて、私が時間を答えるとまたいろいろと質問してくる。
 「今日は何月何日ですか?」「11月8日ですが・・・。」「どこですか?」「え?」「どこですか?」「どこと言われてもここは学校だけど・・・。」「何をきますか?」「は?」「何をきますか?」・・・服のことかなと思い、自分のジャケットをつまみ「これのこと?」と言うと彼は少し語気を強め「何をきますか?」と言い、私に顔を近づけてきてじっと見つめてくる。私はたじろぎ「うーん、わからないなぁ~。モルゲッソヨ(分かりません)。」と首を振ると「~ケン、さようなら・・・。」とどこかへ行ってしまう。
 この生徒は授業の時は教科書も持ってこない。そして平仮名さえ全く読めない。だがチャレンジ精神は見習いたいと思う。
 他の生徒達も自分達の使う日本語が私に通じるのがとてもうれしいようなので、どんな生徒にも笑顔で温かく接することを心がけている。


服装が乱れていたり、ピアスをはめていたり、髪を染めているものもいる。タバコの匂いをさせているものもいる。生徒指導はかなりゆるい気がする。
ここは工業高校なのでほとんどが男子だがわずかに女子がいる。よく挨拶はしてくるし授業も真面目に受けるのだが、女子は全員ピアスをはめ、しっかりとメイクをしている。ピアスや指輪、ネックレスをしている男子もいる。
イ先生によると日本のドラマや映画で生徒達がみんな髪を染めていたり化粧をしていたりピアスをはめたりアクセサリーをつけているのを見て一挙に広まったとのこと。どの作品かわからないが、少し重い気持ちになった。生徒に聞くと「ゴクセン」や「クローズゼロ」かなんかのようだ。ドラマや映画の力は恐ろしい。
 以前授業中に質問を受けた。「日本の高校生の髪型は自由か?染めてもいいのか?」「タバコを吸ったらどうなるか?」・・・もちろんダメだよと言うと不思議そうな顔をする。日本の高校生はどんなイメージをもたれているのだろうか・・・。

 
 基本的にみんな勉強は好きではない。意欲を持って授業を受ける者はわずかである。
 それでもみんが自分に気を遣ってくれているのがわかる。「日本語なんかやる気ないけど、あの日本人なんだか張り切ってるから、かわいそうだし受けてやるか・・・」という心の声が聞こえてくるようである。
 それでも寝てしまう生徒がいるので起こしに行ったり、携帯を使用させないために何度も机間巡視しながらの授業はエネルギーを使う。
 優しい温かい日本人先生を通そうと思ったが、このあいだとうとう携帯を取り上げた。クラス全員が驚きの目でこちらを見つめていた。この生徒はいつも授業を盛り上げてくれていて、随分と私は彼に助けられていたのだが仕方ない。
 

 これから一波乱起こりそうである・・・。

こんなふうに生徒との関係が日々深まっていっている。

2011年11月3日木曜日

カン・サングウという男 ②


 アスファルトの道が終わり砂利道になる。車が激しく揺れる。しばらく山道を登ったり下ったりする。その行き止まりがカン先生のフィールドであった。
 「俺のセカンドハウスだ。週末にはここに来ている。友人たちもここに集まる。」と言う。
 山小屋は二棟あり一つはゲスト用。電気も通っており何の不自由もない。
 山に囲まれた敷地はとても広く全てがカン先生のフィールドなのだ。
 小さな池が二つ。一つは自然のもので、もう一つはカン先生が自分で時間をかけて造ったとのこと。白菜、唐辛子、シイタケ、カボチャなども栽培している。リスが倒木の間からこちらを眺めている。

 犬小屋があったので「犬がいるんですか?」と尋ねると「ああ。」と言う。「今どこにいるんですか?」「わからない。自由だからな。」なるほど、犬もこの山で自由に生きているのだ。
 ふとインドで出会った黒い犬を思い出す。そういえばあの黒犬も海岸沿いで自由に暮らしていた。朝、散歩の途中砂浜に座り込み海を眺めているとどこからともなくあの黒犬はやってきた。海に入っていたのだろう。体は海水で濡れていた。私のそばに来て、いつもじっと見つめてきた。


 熱くて香ばしい香りのする高麗人参茶を飲んだ後、夕食の準備をする。カン先生は野菜を切り、私はニンニクを剥く。練炭と炭にバーナーで火をつけ肉を焼く。外に据えてある木製のがっちりとしたテーブルで食べる。薄暗くなってきた空に月が光りだす。


 カン先生はほとんど英語で話す。私は英語と韓国語をごちゃ混ぜにして話す。お互い言葉は不自由だが何故か意思は伝わる。それぞれの生い立ちや家族のこと、勤務校のこと、韓国のこと、そして今の日本のこと。
 カン先生は20年近くソウルで教員生活をしていたが生まれ故郷に近い学校に勤めることにして、家族ともども移ってきたそうだ。そしてこの山の敷地を買いセカンドハウスを建て、週末をここで過ごしているらしい。
 今の学校は教員も生徒も考え方が狭く新しいことに挑戦するということがないとのこと。「でもまぁ生徒は素直だし、温かいところありますよね。」と言うと「それだけじゃだめなんだよ。もっといろいろなことに挑戦しなくちゃな。」
 韓国は小さく国の力も弱いためいつもいろいろなところからプレッシャーを与えられている。だから徴兵制度もある。南北の統一はこの半島に暮らす誰もが願っていると思うが、大国はそれを望んではいない。今の緊張関係を維持しておきたいと思っているに違いない。韓国はいつも大国に利用されているからな。肉を焼きながらカン先生はそんなことを話してくる。
 「でもサムソンのような世界的な企業もあるじゃないですか。」「ああ、確かにな。だけどじゃあその利益はどこに流れていると思う?いつもこの半島は大国に利用されているんだよ。」
 カン先生はマッコリをいっきに飲み干すと、タバコに火をつける。「日本は韓国にしたことに対して何故謝らないんだ?」「今の日本について話してみてくれ。」私は何も答えられなかった。 赤く染まった炭を見つめたまま言葉が出てこなかった。歴史を真剣に学んだこともなければ、日本についてじっくりと考えたこともない。
 だがカン先生は深くは追及してこない。私が答えられないでいると、「今日は月がきれいだから月明かりだけで飲もうか。」と言い、ライトを消す。
 空の月が存在を顕にする。そして全てのものの輪郭が際立ち、白と黒だけの世界が広がる。
 カン先生を前にしていると自分がいかにつまらない小さな人間であるかを思い知らされる。この韓国の山奥で月明かりの下、一人の男を前にして、自分の人間としての度量というものをあらためて確認することができた。
 時々お互いに言いたいことがうまく言えず沈黙が訪れる。その間を、ビールとマッコリ、白く輝く月、そして冷たい山の空気が埋めてくれる。
 夜になり体が急に冷えてきた。「寒いか?」とカン先生が英語で聞く。「寒いです。」と韓国語で答える。
 部屋に入り巨大なヒーターのスイッチを押す。このヒーターはカン先生の友人からのプレゼントらしい。その他にも山小屋にあるものはほとんどが友人たちが贈ってくれたものなのだそうだ。この巨大なヒーターはものすごく強力で、あっという間に部屋全体を暖めてくれた。
 部屋の壁に木彫りのレリーフが飾られている。『心清事達』と彫られている。それを眺めていると「意味は分かるか?」と聞いてくるので「ええ、分かります。」と答える。「じゃあどんな意味か言ってみろ。」と言うのでめちゃくちゃな英語でなんとか意味を答えると、カン先生は笑顔になりうれしそうにタバコをふかす。きっとあの言葉がカン先生の座右の銘なのであろう。
 私はゲスト用の山小屋の方で眠りにつく。オンドルで温められた部屋は心地よい。

 朝起きて一人、山小屋の周りを散歩する。カン先生はまだ眠っているようだ。山の朝の空気は澄んでいてとても冷たい。
 突然草むらの中から犬があらわれる。朝露で体じゅうが濡れている。しっぽを振りながら私の足に抱きついてきた。そうか、カン先生が言っていたこの山で自由に生きている犬とは君のことか。君の主人はまだ眠っているよ。そう語りかける私を犬はじっと見つめてくる。 
 私はふと思う。カン先生がここに来るのは週に一度。それまで何を食べて生きているんだろう。
 犬はまだ私の顔を見つめている。

2011年10月26日水曜日

カン・サングウという男 ①

 一週間の勤務を終え、今日は土曜日が休みの週なのでのんびりしようと思い、部屋で韓国の古い映画を観ていた。言葉はよく分からないが、ストーリーは分かる。舞台は高等学校。恋あり、ケンカありの学園ものであった。
 映画がクライマックスにさしかかった頃、携帯が鳴る。カン先生からだ。「今すぐ来い。」「今ですか?」「そうだ。待っているぞ。」そして電話はきれる。カン先生はいつもどんな用事なのかは言わない。そして私も聞かないことにしている。
 慌てて着替え学校に行くとすぐに車に乗せられた。
 一時間ほどでサンチョンという小さな町に着いた。カン先生の生まれ故郷らしい。カン先生に導かれるまま古いビルの地下にある会場に入る。中ではパーティーが開かれている。「俺の友人の母親の誕生会だ。好きなものを食べろ。」という。カン先生は友人たちに私を紹介する。「日本人だ。」とカン先生が言うとみんな驚いた顔をする。私が挨拶をするとみんなお酒や食べ物を勧めてくれる。入れ替わり立ち代りいろいろな人が挨拶をしたり歌を歌ったりしてお祝いをする。


 しばらくすると突然カン先生は会場係の人から入れ物をもらい食べ物を詰めだす。「あそこのマッコリ二本持って来い。」と私に言う。私はなんだかとても恥ずかしくてマッコリに手をつけられずにいると「何してるんだ?いいから早く持って来い。」と睨まれてしまう。近くにいる来客者たちは苦笑いをしながらこちらを見ている。食べ物を詰め込んでいるカン先生のところへマッコリ二本を手にして戻る。「帰るぞ。」「え?帰るんですか?」「ああ。」

 
 また車に乗せられる。川沿いを走り、橋の下に車をとめる。「ここで休憩する。」カン先生はタバコに火をつけ、向こう岸の山を見つめる。
 タバコを吸い終わると「今から山に入る。松茸を探そう。」と言い、背広を脱ぎ服を着替えはじめる。私はジーンズにパーカー。ただトレッキングシューズを履いてきていたので良かった。

 
 枝を掻き分けながら道なき道を進む。カン先生は獣のようにものすごいスピードで進んでいく。私は見失うまいと思い必死について行く。途中山肌が地滑りをおこしているところに出てそれ以上進めなくなった。「今日はダメだ。俺だけ知っている秘密の場所があるんだが。」カン先生が残念そうに言う。私は息が切れ、体中から汗が噴き出しふらふらになっていた。「戻るぞ。」そう言うとカン先生はまた山を駆け降りていく。

 
 全く追いつけない。枝で腕を何箇所も擦りむいた。隆起した根に足をとられ何度も転びそうになる。枝を掴み滑り落ちないように下っていく。
 しばらくすると渓流に出た。カン先生は靴や靴下を脱ぎ足を水に浸しながらタバコを吸っている。私は流れる清水で顔や手を洗い、カン先生と同じように足を水に浸した。水はとても冷たく本当に気持ちいい。滴り落ちていた汗もあっという間に乾いてしまう。

 
 畳8畳ほどもありそうな巨大な平たい岩の上でカン先生はザックを開ける。先ほどパーティー会場から失敬してきたマッコリとつまみを出す。流れる水の音を聞きながら二人で飲み、食べる。夏は水量が増えこの渓流は自然のプールになるそうだ。

 
 「カン先生、さっき先生の友人の母親の誕生会に行ったけど、実は今日は自分の誕生日でもあるんです。」「何?本当か?」「はい。ありがとうございます。こんな素敵な場所につれてきていただいて。」カン先生は私をしばらく見つめ「そうか、誕生日なのか。帰るぞ。」と言う。「え?帰るんですか?」「ああ。」

 また車に乗せられ今度はスーパーで降りる。カン先生は肉、魚、野菜、ビール、マッコリなどを買い込んでいく。肉と魚を買うときはじっくりと見て新鮮なものを選んでいた。

 「俺の山小屋でこれを食べるぞ。」「え?山小屋?」「ああ。」「先生、山小屋を持っているんですか?」「ああ。あの山にある。」カン先生が指さす方向を見ると、夕日に染まる山がそこにあった。

2011年10月20日木曜日

  「タクシーで行ったほうがいい。」とキム先生から言われていたが、秋の空がとてもきれいなので、せっかくだから自転車で行ってみることにした。闘牛場がある場所を地図で何度か確認したが、途中道に迷いわからなくなってしまった。
 
 旅をしていたときも、東京で暮らしていたときもいつもそうだ。よく道に迷う。道に迷い目的地に着かず、偶然行き着いた場所でぼんやり過ごしたりすることがしばしばあった。

 幼いころ、母方の祖父母の町の祭りで、一緒に遊びに行った従兄弟たちとはぐれてしまったことがあった。従兄弟たちを必死に探したが出会うことはできなかった。散々歩き回った後、黄昏時、橋の上で途方に暮れ一人泣いていた。行き交う人はちょっとこちらに視線を向けるが、そのまま通りすぎていく。私はただ泣き続けた。
 突然知らないおじさんに声を掛けられ手を握られた。そして夕焼けに染まる街をおじさんに手を引かれながら歩き続けた。今思うと不思議なのだが、幼かった私はそのおじさんのことを信頼しきっていた。おじさんは何も言わなかった。私は手を引かれるまま歩き続けた。気がつくと祖父母の家の前にいた。そしておじさんの姿はなかった。あのおじさんは誰だったんだろう。


 「できれば山には入らないでほしい。道に迷ったら大変なことになる。山賊の被害も最近よく聞くから行くのならガイドをつけて・・・。」私がお世話になっていた宿の女主人に何度も言われたが、結局一人で山に入ることにした。寝袋などの最小限の荷物をザックに詰め込み、あとの荷物は女主人に全て預けた。彼女は泣きそうな顔をして私を見送ってくれた。10日間の許可書を取りベースキャンプを目指した。
  だが、やはり道に迷ってしまった。さっきまで青空が広がっていたのに、急に薄暗くなり雪も降り出す。道が幾筋にも分かれていて、そこを自分の直感だけで歩み続けたがさすがに怖くなってきた。引き返そうと思ったが、今自分がたどって来た道さえ分からなくなっていた。
  ネパールの山をトレッキングするというのにスゥエットとセーター、 紐を巻きつけ滑り止めにしたスニーカーという 、いい加減な装備でここまで来た。山をあまくみていた。体がものすごい勢いで冷えていく。ザックにはチーズのかけらしかない。
  「これを遭難っていうのかな。」と独り言をつぶやきながらも、頭では「どうする?どうしたらいい?」と自問自答を繰り返す。これ以上動くと危険だと思い、岩の上に座り呆然としていた。
  いつしか雪はやみ、薄暗くなっていた空が明るさを取り戻し始めていた。その時、突然目の前に少年が現れた。何の前触れもなく、本当に突然に。神様かと思ってしばらく見つめてしまった。そしてその小さな神様はにっこり微笑んで道を教えてくれた。
  夜になった。私は教えられた道を信じて歩き続けた。山小屋の灯りがずっと向こうに見えたときは、ホッとして全身から力がぬけた。あれから20年以上たった。小さな神様は今でも写真の中で微笑んでいる。


 闘牛場を目指したはずなのだが、大きな湖に出た。しばらくその湖を見つめながらぼんやりとしていた。波紋の下に小魚の群れが見える。
  会場に着いたときにはもう巨大な体躯の牛がお互いの頭を着けぐいぐいと押し合っていた。歓声があがる。戦いの様子を解説者がマイクで実況中継する。牛たちの荒い息遣いが伝わってくる。前脚で砂を掻き揚げる。角と角がぶつかり、鈍い音がする。
 いくつかの試合を見た後、会場の外に繋がれた牛たちのところに行く。戦いを終えた牛たちはみな穏やかだ。頭や鼻筋を撫でてやる。牛は気持ち良さそうに目をつぶる。牛は何も言わない。だからこちらの心も落ち着く。大木に触れているときと同じような気持ちになる。大きな生き物の時間はゆったりと流れる。私はしばらく牛の額に手を置いていた。