2012年5月25日金曜日

小さな世界

 気さくな生徒が多い。そしてよく挨拶する。
 こと「挨拶」に関しては、今まで勤めてきた日本のどの学校よりも多くの者がきちんと行う。そして私に挨拶してくる生徒の半数以上が日本語を使う。満面の笑みを浮かべながらしてくる者もいれば、緊張しながらしてくる者もいる。私に日本語で挨拶するというのが、彼らの中で小さなチャレンジになっているようなのだ。
 おおらかな性格の生徒が多いように思う。

 見た目は真面目そうな生徒が多いのだが、昨年は廊下も教室もタバコの臭いがしていた。今年はあまりしない。まぁそれでも相当数が吸っていると思う。昨年はたばこの吸い殻でトイレが詰まってしまったこともあった。酒臭い時もあった。だが今年はあまりしない。たぶん校外で吸っていると思う。
 隙あらば校外に出てタバコを吸ったり、PCパン(ゲームセンターのようなもの)に潜り込んでしまう。だが去年よりはそれも減ったように思う。
 昨年は私が外国人であることをいいことに、生徒達はいろいろな情報を漏らしてくれた。
「先生、こいつ、やばいですよ。昨日マッコリ飲みすぎてめちゃくちゃ酔っ払っちゃたんですよ。それでタクシーの運転手と殴り合いのケンカになっちゃったんですよ。こいつヤンキーです。ヤンキー、ヤンキー。」
言われた生徒は照れくさそうに頭をかいている。
「酒はいけないよ。」
と言うと、笑顔で「はい。」と頷く。その生徒は授業中ほとんど寝ているが、夜の街では元気なようだ。その生徒も、学校や街で会うと挨拶してくる。

 
 今年の2年生は去年よりは真面目に授業を受ける生徒が多いかも知れない。
 だがやはり今年も無気力軍団がいる。死んだように眠っている生徒が何人もいる。彼らの肩に手を置き声をかけることから授業は始まる。何度起こしてもすぐに寝てしまう。本当に体調の悪い者もなかにはいる。
 これらの生徒のほとんどが夜のバイトをしている。あるいはゲーム中毒だ。学校には寝に来ている。昼になると起き上がり、食堂で昼食をとる。そしてまた午後死んだように眠る。
 夜の街で働くために。一晩中ゲームをするために。
 ゲーム好きなものに聞くと、やはり朝までやっている。やめられないと言う。
 昼食は無料で支給されるため、本当に寝て食うためだけに学校に来ている者がいるのだ。
 そういう生徒は当然成績が悪い。だが、全科目0点でも進級できる。そして卒業もできる。出席さえしていればいいのだ。このことを聞いたとき、私は愕然となった。いくらなんでもあますぎると思った。このシステムでは勉強しなくなるのはあたりまえだ。歯止めがきかない。
 だから逆に真面目に授業を受けている者には感心する。拍手を送りたい。
 タバコを吸ったり、酒を飲んだり、夜の街を徘徊している生徒もいるようだが、私が見る限り、筋金入りのワルはいない。
 とにかく気さくな生徒が多いのだ。


 生徒指導もおおらかだ。
 集団で学校を抜け出し、街でタバコを吸うなんてことが発覚したら、私の日本の勤務校なら大問題になるところだが、そうはならない。注意を受けゴミ拾いなどの奉仕活動をして終わりだ。
 それでもいたるところで生徒は注意を受けている。
 職員室の前の廊下では正座をさせられている生徒が何人もいる。竹の棒でおしりや背中を叩かれたり、頭をこづかれたり、ビンタをされたりしている。耳や頬を捻り上げられている者もいる。椅子を頭の上に持ち上げたまま立たされているものや、腕立て伏せの状態のままキープさせられている者もいる。
 これを今の日本でやったら大変なことになると思う。体罰だと言って大騒ぎになるだろう。だが、ここではそれが日常だ。
 それで深刻な感じかっていうとそうでもない。生徒は隙あらば、休もうとする。正座をさせられている生徒ならば、教員の目が離れた時はすぐ姿勢を崩す。そんな時私と目が合うと、照れくさそうに笑う。みんないろいろと言い訳をする。なかなかずるがしこい輩もいる。


 全校集会なんかの時は、半数以上のものがおしゃべりをしている。ガムや飴を口に含んでいるものもいる。スマートフォンなんかでゲームをしている者もいる。寝ている者もたくさんいる。それでも教員に注意されるとやめる。反抗することは一切ない。だがしばらくするとこそこそと始める。
 教員側も徹底的に指導しようとはしない。ある程度流しているような向きもある。なんとものどかなのである。こんなことでいいのかと思っている教員はどうやら私一人だけのようなのだ。

 そんな全校集会で、やたら盛り上がるときがある。それは校長先生が何かのテーマの話をクイズ形式にして行うときである。
 何故盛り上がるのか?別にクイズがおもしろいわけではない。なのに寝ていた生徒はみんな起き、携帯やスマートフォンをポケットに入れ、おしゃべりをやめて、校長先生のクイズを聞き、「ハイ!ハイ!」と叫びながら手を挙げる。そしてどんどん積極的に答える。みんな燃える。会場が盛り上がる。何故か?それは賞金が出るからだ。「賞品」ではなく「賞金」である。
 私はこれにも驚いた。本当に現金が渡されるのである。高額紙幣である。
 これを日本でやったら大変なことに・・・いや、もうやめよう。ここは日本ではないのだ。
 はっきり感じたままを言うと、やはり大陸の風がここにも流れている気がする。その風は以前中国を巡った時に感じたものと似ている。島に吹く風とは異なる。大陸の風だ。


 ただ、信じられないほど真面目なメンバーがいることも記しておく。
 私は週4日、日本語の放課後授業をしている。午後5時からそれは始まる。7時間授業が終わった後の8時間目である。
 メンバーはわずか8人だが、このメンバーは無茶苦茶素直で性格がいい。みんなが帰ってしまうのにわざわざもう一時間残って勉強しようというのだ。この学校では奇跡に近い。スポーツや芸術活動のために残るっていうのなら分かる。でも、そうではないのだ。
 本当にこの8人は心配になるくらい純朴なメンバーなのである。悪い輩に一番初めに騙されるんじゃないかと私は心配になってしまうのだ。
 当然クラスでは目立たず、スポーツ大会や文化祭などの学校行事では何の代表にもなっていない。もちろん立候補はしないし、誰からも選ばれることもない。いつも見学や応援だけだ。だがコツコツと真面目に勉強している。

 放課後授業は、「授業」といっても円になって座り、体も動かしながらどんどん日本語で話していくという形式をとっている。
 生徒達は恐ろしいスピードで日本語を習得していっている。言葉はやはり若いうちからというのがよく分かる。
 みんなものすごくシャイだが、この授業では笑いが絶えず、私もとても心地よい。

 私はこのメンバーを大切にしようと思っている。学校の中では本当に目立たず、静かに生活している生徒達だ。たぶん先生方の中には、顔と名前が一致しない生徒もいると思う。それほどみんな控えめに生活している。
 自分を消すことが最大の防御なのかもしれない。彼らは目立たないことで本能的に自分を守っているのかもしれない。なぜなら目立っている者達は、目立っている者どうしで、いつもいろいろとトラブルを起こしているからだ。


 私は今、この放課後授業において、個人的で我が儘な一つの目標を持っている。自分勝手な目標である。

 それは、彼らがオヤジになり何十年後かに高校時代を振り返った時、
「目立たず控えめに生きた高校時代だったけど、そういえば一人の日本人だけはいつも声をかけてくれたな。名前は何だったっけ?忘れちゃったなぁ。でもあの放課後授業は楽しかったな。・・・そうだ、そういえば自分はあの時間だけは輝いていた気がする。」
・・・そんなふうに今を思い出すときがあったらと思うのだ。

 大陸の端にある韓国。その南にある小さな地方都市。その街を包むように流れる巨大な川。その川沿いにある工業高校。

 そこで暮らす生徒達の話です。小さな世界の話です。

2012年5月13日日曜日

犬の瞳

「サンチョンのバスターミナルまで来い。」
いつも一本の電話から始まる。サンチョンはカン先生の故郷である。
「何時に行けばいいですか?」
「今すぐだ。」
 カン先生からの突然の電話にも動揺しなくなった。カン先生は私を甘やかしたりはしない。他の先生ならば必ず家の近くまで車で迎えに来てくれるのだが、カン先生は違う。現地集合だ。そこまで自力で行かなければならない。

 ザックに着替えを詰め、トレッキングシューズを履いて部屋を出る。カン先生はその時の気分で突然山に入ることがあるため、それに備えておかなければならない。
 人間というものは学習するものだ。そして経験が新たな世界を呼び込む。

 以前生徒から教えてもらった35番のバスに乗る。1100ウォン。街の市外バスターミナルの前で降りる。
 切符売り場でサンチョン行きの切符をアジュンマから買う。「サンチョン」と「サッチョン」では全く違う場所に行ってしまうので、発音に気をつける。切符のハングルを確認。「サンチョン」行きの切符に間違いない。
 携帯が鳴る。カン先生からだ。
「今どこにいる?」
「市外バスターミナルです。」
「よし。」電話は切れる。

 予想に反してバスには客がたくさん乗っていた。登山をするような格好の人が多い。バスが走り出すとすぐ睡魔が襲う。うつらうつらしていると、また携帯が鳴る。
「今どこだ?」
「サンチョン行きのバスの中です。」
「よし。」
 その後、カン先生は韓国語で何事かをまくし立てる。何を言っているのか、全く分からない。まいったなぁ。まぁなんとかなるだろう。
「わかりました。」
全くわからなかったがそう答えておいた。電話は切れる。

 やがてサンチョンにバスは着く。カン先生が車にもたれながらタバコを吸っていた。こちらを見てニヤリと笑う。
 車に乗せられたと思ったら、しばらく走りすぐに降りる。
 サンチョンは祭りだった。薬膳や薬酒、漢方薬など韓国の伝統の「薬」をテーマとした祭りである。たくさんの人で賑わっている。薬だけでなく、陶器や韓服、鉢植えや家具、酒や食材など様々なものが売られている。
 

 カン先生とマッコリを飲みながら牛肉のクッパを食べる。たくさんの出店を眺めながら二人でぶらぶらと歩く。カン先生は何かの薬草とお茶を買っていた。

 陶器の店が何軒も連なっているところに出る。私はその一軒に入り、コーヒーカップと小さな一輪挿しを買う。
 あとどうしても気になった小さな焼き物を手にとっていると、店の人がいろいろと説明してくれた。全く理解できない。韓国語は毎日空いた時間に勉強しているのだが、なかなか力がつかない。だがその女性はジェスチャーを交えながら一生懸命私に伝えようとする。なんとなく分かってきた。この焼き物は、山などに入ったときに樹木や草のエキスを集め、保存するための小瓶なのかもしれない。だが正確なところはわからない。まぁどうでもいい。その変わった形をした焼き物も購入した。


 カン先生は壺をみている。そして一つの壺を指さす。
「どうだ、これ?」
「いいですね。」
  それはその店に置いてある中で一番大きな壺であった。きっと売り物ではなく、客寄せのためのものだと思う。
 二人の若い男女が水牛に乗っている様子がデザインされている。二人は恋人どうしだろう。身を寄せ合っている。男は横笛を吹いている。女はその音色にうっとりとしている。水牛が二人を乗せてゆったりと歩いている。山の上に大きな満月がある。ゆるやかな風を感じる。素敵な壺である。私もカン先生と一緒にしばらくその壺を見入っていた。
 カン先生は店の人を呼び、何やら壺の説明を受けていた。そして私の方を振り向き、
「俺はこれにする。」と微笑む。
「え?それ買うんですか?」
「ああ。」
「本当ですか?」
「ああ。」
私は驚いた。店の人も驚いている。カン先生はカードで支払いをしていた。店の人は私とカン先生に陶器の風鈴をサービスしてくれた。
 カン先生は丁寧に梱包された壺を肩に抱え歩いて行く。

 車は山に入る。山の斜面が段々畑になっている。そこで畑を耕していた仙人のように温かい表情をした男が車に乗ってくる。カン先生の幼なじみらしい。そしてカン先生の山へ。
 山小屋へ着くと二匹の犬が迎えてくれた。完全なる放し飼いである。初めは私に吠え掛かってきたが、私がしゃがみ込むとしっぽを振って寄ってきた。首や胸を撫でてやる。二匹の犬はじゃれついてくる。二匹とも雑種のようだ。体調は1メートルほどあるが、まだ子供のようである。遊びたくてしょうがないという感じで、私に纏わり付いてくる。だが、カン先生は厳しい。「行け!」と言い、手を上げ蹴るふりをする。犬たちはさっと離れ側に座る。
 カン先生は犬を撫でたりはしない。犬はカン先生の全ての指示に素早く従う。犬たちは私に対しては「こいつは大丈夫だ。」と思ったようで、じゃれついてきてずっと側から離れない。
 以前ここに来たときは別の犬がいたが、とにかく放し飼いで自由なので、今は山のどこかに行っているようだ。


 夜は屋外で、マッコリを飲みながらサンギョプサル(豚の三枚肉)を焼いて食べる。
 カン先生の友人は畑仕事で疲れていたのだろう、早々に酔いつぶれ寝てしまった。後は私とカン先生二人で月を見ながらいろいろなことを話す。韓国語と英語をちゃんぽんにして。カン先生とはそんなに会話がなくても一緒にいられる。
 山の夜は本当に静かだ。冷えた空気が、マッコリでほてった体を心地よく包み込んでくれる。月明かりが木々を照らす。
 二匹の犬もじっと月を見ている。彼らは何を想っているのだろう。犬の顔が、月明かりでほのかに銀色に光っている。

 朝起きて山小屋から出ると犬たちが飛びついてくる。カン先生と友人はまだ眠っているようだ。
 犬と一緒にしばらく散歩する。葉が朝露に濡れて光っている。
 朝食はカン先生とその友人が作ってくれたテンジャンチゲ(韓国味噌鍋)。
 その後、私は食器を洗い、ゴミを焼く手伝いをした。山小屋では、それぞれが何かをする。それが暗黙のルールだ。
 そして山へ向かう。カン先生の友人は二日酔いのためお留守番。二匹の犬とともに山へ。カン先生が犬に向かって「来い。」と呼びかけると、犬はさっと我々の前に出て先導してくれる。とても賢い。

 アップダウンの激しい細い山道に入る。いつものことながらカン先生のペースにはついて行けない。カン先生はものすごい勢いで登っていく。
 息が切れて足が重くなる。汗が噴き出てくる。
 二匹の犬はなんども私のところへ戻ってくる。「早くおいでよ。」というように私を見つめる。頭をなでてやるとまたカン先生のところまで走っていく。だがしばらくするとまた戻ってくる。二匹の犬はどうやら私のことを心配してくれているようだ。「大丈夫?」というように私を見つめる。
 犬に心配される自分。情けないとは思わない。何故だかとてもうれしい。犬たちは何度も私とカン先生の間を往復するため、ものすごい距離を走っていることになる。私はこの二匹の犬がとても好きになった。


 木々が生い茂る細い山道を登り切ると、最後は巨大な岩が折り重なっているところに出る。それをよじ登り山頂へ。

 犬たちはそこをどうやら登れないようで、岩の下から私をじっと見つめる。
 カン先生が「ヤーヨイ、ヨイ」と声を掛ける。犬たちがさっと岩壁に沿って走り出し姿が見えなくなった。そしてしばらくすると突然山頂に現れた。どうやら山頂までの別のルートがあるようだ。犬たちはそれを知っているのだ。


 二匹の犬が私に駆け寄りじゃれついてくる。今日はこの犬たちに随分助けられた。私は思いきり撫でてやった。彼らはしっぽを振り、顔を舐めてくる。
 岩肌に座り、水を飲む。アパートで飲む水の何千倍もうまい。風が心地いい。遠く連なる山々を見つめる。

 犬も遠くを見つめている。彼らの目にはどんな風景が映っているのだろう。
 声をかけると犬は私のところまでやってくる。私の手を何度も舐めた後、じっと私を見つめてくる。

 犬の瞳の中には、私がいた。そして、私の後ろには青い空が広がっていた。