2012年4月28日土曜日

釜山、プサン、ぷさん、PUSAN

 釜山駅から大通りを渡り、路地裏に入る。
 ロシア人がたくさんいる道をぶらぶら歩く。飲み屋が多い。フィリピン人の集まる飲み屋も何軒かある。私はゆっくりといろいろ見ながら歩くので、むこうもこちらをじっと見つめてくる。そこを通り過ぎると、小さな中華街がある。さらに裏の細い道に入ると薄暗く、たくさんのモーテルが並んでいる。そのあたりをぐるりと周り、いつもの食堂に入る。


 釜山に来たときにはいつもこの食堂に入る。そしていつも同じものを注文する。
 「アグウタンハゴ、メクチュウハンピョンチュセヨ。」こう言うと、アンコウの煮込みスープとビールが運ばれてくる。ここのアンコウの煮込みはとてもうまい。冷えたビールで渇いたのどを潤しながらそれを待つ。やがてぐつぐつと煮え立ったアンコウの煮込みがやってくる。

 この店にはおばちゃんが二人いるのだが、そのうちの一人がとても個性的である。
 機嫌がいいときは満面の笑みを浮かべて料理を運んでくる。だが、機嫌の悪いときはそれが表情にはっきりと表れていて、運んできた料理もどかっと音をたててテーブルに置く。
 おばちゃんはわかりやすい。暇なときは機嫌が良く、忙しいときは機嫌が悪いのだ。つまり客がたくさん来ることが嫌なようなのだ。客商売にも関わらず、これだけ態度を変えるのも珍しい。
 そのおばちゃんは出前もする。頭にお盆をのせて路地裏に消える。そして食器をのせてまた帰ってくる。頭にお盆をのせたまま、近所の人と世間話をしている。

 なるべく内面の波を表には出すまいと私なんかは努力するのだが、なかなかそれができないでいる。不愉快な時はそれが表情や態度に出てしまい、ああ自分はまだまだ余裕が無いなぁなどと思ってしまう。だが、あのおばちゃんは違う。おもいっきり内面を顔に出してしまっている。気持ちいいくらいに。
 「今私は不機嫌なのよ、客なんて来なければいいのに、なんで来るのよ!」と、はっきり顔に書いてある。
 日本だったら接客態度が悪いということで誰もその店に行かなくなるかもしれない。あるいは客とトラブルになるかもしれない。でもそこは流行っている。時間によっては満員で入れないときもある。文句なしに美味いものを出すからだと思う。それにおばちゃんのことをどうやらみんなが認めているようなのだ。どの客もおばちゃんから乱暴な口をきかれても、苦笑いをして受け流している。おばちゃんは愛されているといっても過言ではない。


 店を出て駅前の広場に向かう。駅前にはたくさんのベンチがあり、様々な人がそこにいる。私は必ず東側にあるベンチの一つに座ることにしている。そこでのんびりと周りにいる人々を眺める。

 若者が巨大な駅舎を眺めながらタバコを吸っている。
 カップルが楽しそうに語り合っている。
 3人の若者がコーヒーを飲みながら何かを相談している。

 私の斜め後ろには奇妙な服を着た人がいる。布団のような分厚い服である。つぎはぎだらけでとてもカラフルである。青、赤、紺、緑・・・。水色の帽子をかぶっている。肌は赤黒く髪も乱れているため性別が判然としない。ベンチに座り虚空を見つめている。全く動かない。カラフルな岩のようだ。
 その人の前にあるゴミ箱を入れ替わり立ち替わり何人もの人が物色する。捨てられた食べ物やタバコを漁っている。

 カラオケをしている人たちがいる。二人の女の人が司会をつとめ、何人かのおじさんが順番に歌う。観客は誰もいない。誰もいない空間に向かって歌っている。待っているおじさん二人がつかみ合いのケンカをしだした。おばさんが「アイゴー」と叫びながら止めに入る。
 タバコを吸っていた若者が笑顔になる。


 足を引きずりながら一人の男が近づいてきて、私に何事か話しかけてくる。顔は酒やけをしている。タバコに火をつけ私に微笑みかける。どうやら今カラオケで歌われている曲名を私に聞いているようだ。「モッラヨ(分からないよ)」と言うと、私に何事かをつぶやき、また足をひきずりながら離れていく。
 今度はカップルのところに行き、また何かを語りかけている。カップルは完全に固まっている。二人とも下を向き、おじさんと関わろうとしない。二人の体はピクリとも動かなくなる。物体と化す。おじさんは二つの物体に熱心に語りかける。だが、その物体は微動だにしない。おじさんはあきらめ離れ去る。やがて物体が生物へと変化する。
 二人に安堵の表情が広がる。

 私の前方で7人が酒盛りをしている。
 段ボールを地面に敷いて焼酎を飲んでいる。紙コップに何かつまみが入っているようだ。みんなそれを片手に酒をあおっている。どの人も髪や顔、服は薄汚れている。ポケットから短いタバコを出し、それに火をつける。女性も一人いる。その人も焼酎を飲み笑っている。汚れた歯が見える。みんな楽しそうだ。

 そこに突然、赤いザックを背負った30代半ばくらいの男がどこかから現れた。そしてその集団に近づいていく。何事かを7人に言っている。一人の男が、「帰れ、どこかに行け。」というように手を振る。だがその赤いザックの男は立ち去らない。それどころかさらに近づき、何かを言っている。

 奥に座っていた男がゆっくりと立ち上がる。体がでかい。髪もひげも伸び放題で汚れている。薄汚れたライオンのようだ。服はぼろぼろで、ゴム草履を履いている。目は細く鋭い。そして血走っている。かなり酔っているようで、足下がおぼつかなく倒れそうになる。危険なオーラが漂っている男である。
 赤いザックの男に何事かを叫び、つかみかかろうとする。それを茶色いジャンパーを着た短髪の男が止めに入る。
 「どっか行け!」と何人かが声をあげる。赤いザックの男はせせら笑っている。ライオンは大声をあげる。短髪男が必死になって二人の間に入り止めている。
 短髪男は赤いザックに頭を下げている。「悪いが、もう行ってくれないか。申し訳ない。」とでも言っているようだ。
 赤いザックは少しその集団から離れる。だが、ライオンを見つめながらバカにしたようにせせら笑っている。ライオンがまた吠える。赤いザックの笑いが凍りつき、またライオンに近づいていく。つかみ合おうとする二人の間で短髪男が必死に体を張って止めている。

 私の周りの人々もその光景に釘付けになっている。誰もが何かが起こることを期待しているようだ。


 3人の姿が突然視界から消える。

 私の目の前を車いすの男がゆっくりと通り過ぎる。
 無精ひげを生やした初老の男だ。痩せた体がねじれてしまっている。上下とも黒く汚れたジャージを着ている。口を開け青い空を眺めている。車いすがゆっくりと移動していく。進行方向と顔の向きがねじれをおこしている。

 タバコを咥えた黒ずくめの男が私に近づいてくる。
 突然私の足下に唾を吐く。私はその男を見上げた。その男は、両の目があらぬ方向を向いている。顔は私の真正面にあるのだが、目はそれぞれ別の方向を向いている。顔面全体が炭でも塗ったように黒く汚れている。
 男の言葉を待ったが、何も語らない。私の目の前に立ち、黙ったままタバコを吸っている。
 だが、男の言おうとしていることは分かる。私の座っている位置は彼らの領域なのだ。私は彼らの世界に接近しすぎている。そしてさっきから凝視しすぎてしまっている。
 「離れろ、そして見るな。」そう男は言いたかったのかもしれない。
 男は吸っていたタバコを投げる。そして私の横に座る。だが何も言わない。
 私は男の顔を見つめた。二つの目がそれぞれ別の世界を向いてしまっている。やがて男は立ち上がり私から離れていく。その男も少し足をひきずっている。私は歩き去って行くその男の背中をしばらく見つめていた。


 ふと視線を前方に戻す。
 私は愕然となる。・・・何なんだいったい。おいおい待ってくれよ・・・。
 ライオンと赤ジャンパーと短髪男がベンチに座り、笑顔で焼酎を飲んでいるのだ。見逃した・・・。何があったんだ。くっそー、あの車いすの男と黒ずくめの男に意識を奪われている間に、何かが3人に起こったのだ。
 いったい何が・・・。

 ライオンと赤ジャンパーの間に短髪男が座っている。二人の殺気をどうやって収めたのだろう。・・・あの短髪男、ただものではない気がする。
 あんな男が世界を変える力を持っているかも知れないじゃないか。
  答えは、国連の絨毯の上にあるんじゃなくて、駅前の地面に敷かれた段ボールの上にあるかもしれないのだ。

 決定的瞬間を見逃した。ため息が漏れる。私は立ち上がる。幕は下りたのだ。
 さて帰ろう。今日はどこの宿も満杯で部屋が無い。久しぶりに駅で一晩を過ごそうかとも思った。だが、明日はある会合に出席する。ゆっくりと眠っておきたい。
 いつも泊まる宿の主人に相談したら、部屋は満杯で、あれからキャンセルは出なかったそうだ。だが、最上階の物置になっているようなところでもいいならということで了解した。隣の部屋には主人の大学生の甥っ子が住んでいるらしい。屋根の下に寝られるっていうのはありがたいことだ。


さて宿に戻ろう。背伸びをし、体をひねる。360度自分のいる世界をもう一度見渡す。

 さきほどカップルが座っていたベンチに一人の男がいる。ロシア系の若い男だ。痩せている。目は虚ろで斜め前方の地面をじっと見つめている。何かを考えている目だ。そして手には花束。

 ・・・物語はどこにでも転がっているんだな。もう一つのドラマが始まろうとしている。だが、幕が開く前に宿へ戻ろう。釜山駅前劇場は一日一話、それくらいがちょうどいい。

2012年4月16日月曜日

超えてる男

 先日、遠足があった。高校生になっても遠足があるっていうのは、なんだかいい。
 各クラスそれぞれ自由に行き先を決める。山であったり、川であったり、ダムであったり、公園であったり・・・。一年生から三年生までクラスごとに、その日をのんびりと過ごすのだ。
 私は今、2年生の全クラスに日本語を教えているので、せっかくだから2年生のどこかのクラスに混ぜてもらい参加しようと思っていた。
 山がいいかなぁ、それとも川にしようかなどと思いながらリストを眺めていたら、カン先生に声をかけられた。このブログでも以前「カン・サングウという男①・②」で紹介した、あのカン先生である。

「明日、9時に城の後門に来いよ!」
「え?」
「遅れるなよ。」
「はあ。」
「後門の方だぞ、間違えるなよ。」

 カン先生は3年生の担任である。
 昨年度の半年間、このクラスに日本語を教えたのだが、気のいいメンバーがそろっている。勉強を真剣にする者は極端に少ないクラスだが・・・。
 私はせっかくだから今教えている2年生と交流を持ちたいと思っていたのだが・・・、カン先生はもう歩き去ってしまっている。やれやれ、いつものことながら突然だなぁ。

 カン先生は生徒に対してはとても愛情深い。だが叱るときはびしっと叱る。だから生徒からも一目置かれ、信頼されている。
 職員会議では必ず意見を言う。相手が管理職だろうと容赦はしない。おかしいと思ったことはとことん追及する。絶対に譲らない。だから管理職達は明らかにカン先生のことを煙たく思っている。側で見ていてそれが伝わってくる。だが、カン先生は平気だ。

 校長先生が全職員に何かを伝える。
 みんな下を向く。ため息をつく。隣同士、眉間に皺を寄せながらコソコソと話をし出す。目をつむり、こめかみを押さえる先生もいる。あきらめ顔で首をふる先生もいる。
 そんな時、カン先生は、「チャンカンマンニョ(ちょっと待って下さい)!」と言い立ち上がる。
 私は職員会議で、何度カン先生の「チャンカンマンニョ!」を聞いたことだろう。
 管理職達の顔が一斉に曇る。警戒心が目に宿る。
 カン先生はいつも管理職が発言するときはしっかりとメモをとっている。そして矛盾点を追及する。
 校長先生が目を見開き、鋭い視線を送る。だが、カン先生は一歩もひかない。メモを片手に強い口調で発言する。校長先生の唇がわずかに震え出す。カン先生はお構いなしだ。
・・・燃える男ここにありという感じなのだ。


 朝9時、城の後門に到着する。
 空は暗く今にも降り出しそうだったが、私は自転車で出かけた。
 もう生徒達は集まっている。みんな私服でおしゃれをしてきている。このクラスには女子も二人おり、いつもどおりメイクをばっちりときめてきていた。
 私も私服でラフな格好で参加した。だが靴だけはトレッキングシューズを履いていった。私は普段から街に出るときはトレッキングシューズを履く。特に理由はない。なんとなく落ち着くのだ。

 カン先生は、遅刻。それなのに、その後遅れてきた男子4人組に近寄り、「こらっ!おまえら遅いぞ!」と言いながら耳をつまみ捻り上げていた。いつもやんちゃな4人組は悲鳴を上げて耳をおさえていた。

 城の中をみんなで散歩。
 日本語の放課後授業をとっているテミョン君もいるので、いろいろと話しながら歩く。
 広場では、片足になりタックルし合って相手を倒すゲームをしたり、騎馬戦をしたり・・・。
 カン先生に「やってみろ!」と言われしぶしぶ生徒達は始めるのだが、みんなやりだすと異常に盛り上がる。どの生徒も笑顔である。
 楽しんでいるみんなの姿を、体調の少し悪い者や女子達と一緒にベンチに座って眺める。見ているこちらもみんな笑顔である。散歩中のおばさんもベンチに座って微笑んでいる。なんとものどかである。
 カン先生は生徒の中に入り声を掛け、盛り上げている。嬉しそうである。この人は本当に生徒が大好きなのだ。
 教員と言うよりも、ガキ大将だ。盛り上げ方をわきまえている。授業中いつも元気のないものまで笑顔で跳び回っている。生徒達もカン先生のことが大好きなのだ。


 ポツリポツリと雨が降り出す。カン先生が生徒達に声をかけ、突然すたすたと歩き出す。みんなが後について歩く。
 テミョン君に「雨降ってきたね。これからどうするの?」と聞くと「映画館に行くみたいです。」と言う。え?遠足なのに映画?そんなのいいのかよ~。まぁカン先生の中ではOKなんだろうけど・・・。
 城は街の中心部にあるので、映画館はここから歩いて15分くらいである。
 雨の中を映画館へと歩く。
 生徒と映画を観るのも悪くないなと思い、テミョン君に「何を観るの?」と聞くと「『タイタン』を観ます。先生、一緒に観ましょう。チケットはあそこで買います。」と教えてくれた。
 みんな自分のお金でチケットを買っている。
 私も買いに行こうとすると、いきなりカン先生に肩をつかまれた。「チケットはいらない。」と言う。そうか、自分の分をもう買っておいてくれたのか。

 生徒達が全員映画館に入ると、「来い。」とカン先生は言い、歩き出す。映画館を出て、雨の中を街に出る。また城まで戻る。そしてカン先生の車に乗せられる。
 おいおい生徒ほっといていいのかよ?今日は遠足だろ?まずいんじゃないのかなぁ~。まぁ生徒はみんな映画館の中だから、その間に食事でもするつもりなんだろうけど・・・まぁいいか。任せよう、カン先生に。

 雨の中を車は走る。まだ走る。まだまだ走る?車は街を出る。え?いったいどこの食堂へ行くんだ?高速道路に入る。え?どこに行くの?カン先生は前方を見つめアクセルを踏む。
 雨が降る。車は走り続ける。それから一時間、ずっと高速から降りない。
 もう引き返さないと生徒の映画が終わる時間に間に合わなくなってしまう。私は少し心配になってきた。

「カン先生、どこに行くんですか?」
「サクラ。」
「え?どこに・・・」
「サクラを見に行くんだ。」

 それからしばらく高速を走り、国道に降りる。
 出発して2時間ほどたったころ、生徒からカン先生に連絡があった。・・・そりゃそうだろう。生徒はみんなこれからどうしたらいいかわからないはずだ。
「おう、終わったか。おう、おう、じゃあ家に帰れ。おう、おう、家に帰れ。じゃあな。」そう言ってカン先生は電話をきる。そして微笑む。
 え?勝手に解散?遠足は?生徒達はきっとあっけにとられているだろう。
・・・いや、あの生徒達はカン先生に慣れている。3年間ずっと担任だからな。カン先生の行動パターンを熟知している。こんなことは、いつものことなのだ。
 あっけにとられているのは、きっと私一人なのだろう。

 そこに桜のトンネルがあった。長い長い純白のトンネルであった。雨に濡れた桜の花びらが光っていた。
 数え切れないほどの桜の木が一本の道を両側から包み込んでいる。どこまでも白いトンネルは続いている。私は息をのんだ。これほど長い桜のトンネルを見たのは初めてだ。
 今自分がどこにいるのか分からなくなった。桜が私を包んでくる。桜の胎内に入ったようだ。


 カン先生が「マッコリを飲め。」というので飲んだ。
 「朝鮮人参定食を食べるぞ。」というので食べた。
 「寺まで歩くぞ。」というので歩いた。
 「仏画を観るぞ。」というので観た。
 「山に入るぞ。」・・・え?「山に入るぞ。」・・・え?私は耳を疑った。今から山に?・・・雨も降っているし・・・山に入るのは嫌だ。早く帰って濡れた体を温めたい。
 カン先生は行ってしまう。私は遅れないよう必死に追いかける。だが追いつけない。カン先生はものすごい勢いで登っていってしまう。全然見えなくなってしまう。
 息がきれる。足が重い。それでも登る。足下だけ見て登る。体が熱くなる。
 俺は何で韓国の山をこんな雨の中登っているんだ?俺は何をしているんだ?
 苦しい。ジャケットを脱ぐ。一歩一歩登る。もう何も考えられなくなる。右足を出したら、左足を出す。それだけだ。

 「苦しいか?」突然カン先生の声がする。
 ふと上を見ると、巨大な岩の上でタバコをふかしながら微笑んでいる。
 「ケンチャナヨ(大丈夫です)。」と答える。本当は全然大丈夫ではないのだが・・・。
 岩を登り、カン先生の横に座る。谷底がはるか彼方に見える。冷たい風が気持ちいい。雨もやんでいる。
 もうここで充分だ。ここで寝転んでこの風景をずっと眺めていたい・・・。

 「行くぞ。」カン先生は立ち上がる。そしてまた、獣のようにどんどん登っていってしまう。必死に追いかけるが、すぐにまた見えなくなる。だが道は一本道だ。迷うことはない。
 あの人はマッコリも大量に飲んだし、タバコを何本も吸っている。それなのに何故、あんなにすごい勢いで山道を駆け上がることができるんだ?何故なんだ?何者?けだもの?それとも山の神?
 ところで俺は何でこんなに必死になって登っているんだ。どこに行こうとしているんだ。
 今日は遠足のはずじゃないか。城で生徒と楽しく過ごし、笑顔で帰るはずじゃなかったのか?
 また体が熱くなる。それからまたさらに一時間くらい登った。
 もう言葉も思考も消えた。足を交互に出すだけだ。それが生きている証。
 道の分かれ目でカン先生がタバコを吸いながら待っていてくれた。
 笑っている。

「聞こえるだろう。」
「え?」
「水の音、聞こえるだろう?」

本当だ。水の音が聞こえる。何故こんな山奥に・・・。しばらく歩くと、突然巨大な滝が現れた。 


 私はカン先生と二人でずっとその滝を見つめ続けた。
 水が落ちる。轟音に体が包まれる。カン先生が満足そうに微笑む。

 どうやらここが今日の折り返し地点のようだ。折り返し地点・・・。
 生徒達のことがふと頭をよぎった。私とカン先生がこんな山奥にある滝を今こうやって見つめていようとは、きっと夢にも思わないだろう。

 なんだか笑えてくる。カン先生も笑う。

 私はその場にしゃがみ込み、水の落ちる音に身を委ねていた。

2012年4月9日月曜日

もう一つの宇宙

 今まで教員生活を送ってきて、様々な生徒に出会ってきた。そしてその中にはかなり個性の強い生徒がいて、そんな生徒と出会った時は人間というものの果てしない深淵を覗いたような気持ちになる。

 韓国に来てそんな生徒の一人に出会った。電気科の3年生のT君である。昨年度までは私は彼に日本語を教えていた。
 T君はとても明るい性格でいつも「初めまして、今何時ですか?」「初めまして、今日は何月何日ですか?」「初めまして、クレヨンしんちゃん好きですか?」と、私に声を掛けてくる。何度会ってもいつも「初めまして」を使ってくるので、そのことを指摘したのだが、それでも必ずいつも「初めまして」と挨拶してくる。

 こっちに来て一番初めに私に声をかけてくれたのが、T君だった。
 彼は電気科の中で入学時に最も成績の良かった者達が集められているクラスに在籍している。だが授業には教科書を持ってこない。そして平仮名も読めないのである。
 私が授業中に彼をあてると、いつも全く答えることができない。そして周りの生徒達は「バカ、バカ、バカ。」「先生、彼はバカです。」と言ってはやし立てる。だが、T君はいっこうに気にする様子も無く、へらへらと笑っている。
 彼が何故成績優秀者が集まるこのクラスに在籍しているかは謎なのだが、私はその謎を謎のままにしている。


 ある時授業中、彼はおでこの上に消しゴムをのせずっと上を向いていた。私はもしかしてT君はいじめにあっているのではないかと思い、心配し注意を払っていたときだったので、すぐかけよりその消しゴムをとり机の上に戻した。そして周りの生徒を見回すとみんなニヤニヤしている。T君に視線を戻すとまた消しゴムをおでこに乗せている。周りの生徒達は「先生、ほっときましょう。」という雰囲気で、こちらを見つめる。
 わからない。周りから命じられ、やらされているのか、それとも自発的にやっているのか・・・。
 他の先生にそのことを話すと、「彼は変わっているからね。」と言って笑うだけである。

 ある日、学校の近くの道を歩いていて、T君に出会った。
 彼は制服姿で道の端に立っていた。彼は何をしていたか?・・・私は見てはいけないものを見てしまった気がした。気づかないふりをして、そのまま通り過ぎようと思ったが、足が勝手に止まってしまう。そしてT君を見入ってしまった。
 彼は電柱と話をしていたのだ。とても熱心に・・・。

 彼は何事かを電柱に語りかけ、微笑みながら手で撫でたりしている。そうかと思うと急に厳しい口調になり、電柱をしかりつける。そして電柱を何度も蹴る。
 私は呆気にとられ、しばらく呆然と眺めてしまっていた。通り過ぎる人々も驚いてT君を見つめている。明らかに蔑んだ目で冷たく笑いながら通り過ぎる人もいる。

 私はなんだかいたたまれなくなってきて、思わずT君に声をかけた。T君は振り向き私と目が合うと笑顔になり、「初めまして。元気ですか?」と日本語で言ってくる。私は韓国語で「元気だよ。T君の家はこの近くなの?」と聞くと、彼は急に空を見上げ、ククククと笑った。私も空を見上げる。真っ青な空にはいくつかの雲が流れている。T君は、今度は足下を見つめる。そして何事か奇声を発すると、背を丸め体を揺らして独特なリズムの歩き方をしながら行ってしまった。
 私はずっと彼の揺れる背中を見つめていた。

 
   私が韓国に赴任して間もない頃・・・。
 まだ残暑が厳しくその日は教室にはクーラーがかかっていた。
 ちょうどその時はキム先生が文法の説明をしていて、私は机間巡視しながら生徒がメモをきちんととっているか確認をしていた。
 案の定、T君だけが何もしていない。教科書もノートも出ていない。筆記用具もない。そして天井を見つめている。
「T君、あれを書いて。教科書は?」と声をかけたが彼は笑顔で「オプソヨ(ありません)。」と言って首を振る。
「ノートは?」
「オプソヨ。」
「ペンはあるの?」
「オプソヨ。」
 周りの生徒もキム先生も「先生、ほっときましょうよ。」という顔をして、首を振る。

 T君はまた視線を天井に戻す。何故か真剣な眼差しである。
 私は彼が見つめる天井を見てみた。そこには教室用の少し大きめなクーラーが取り付けられている。彼はそれをじっと見つめているのだ。瞬きもしない。送風口から出る風を見ようとしているのか、・・・わからない。
 他の生徒達は黒板に書かれた文法事項をノートや教科書に書き込んでいる。T君はじっとクーラーの送風口を眺めている。そして次の瞬間、微笑んだのだ。嬉しそうに笑う。声はたてずに。そしてすぐにまた真剣な眼差しに戻る。

 私はT君の側に近寄り、しゃがんでT君の目線になってクーラーを見つめてみた。T君はいったい何を見ているのか興味を持ったのだ。
 T君はある一点を見つめている。視線はその一点にあり、微動だにしていないように思える。私はその「点」を探してみた。だが、何も見当たらない。天井に何があるというのだ。
 私がT君と一緒になって天井を見つめているのに気づいたキム先生や生徒達から笑いがおこる。
 「先生、彼はバカです。」「バカ、バカ、バカ。」とまたはやし立てる。「バカ」という日本語の発音がみんなやたらといい。いつもT君に言っているに違いない。

 みんなが声を上げて笑う。
 笑えばいい。今、私はT君の見つめる「点」を探すのに集中しているのだ。今、私がやるべきことはT君と一つになることなのだ。授業中だろうと関係ない。「バカ」で結構。だがこの「点」だけは今見極めたい。今しかそのチャンスがないように思えた。

 彼はどんな世界を見つめて生きているのだろう。いったい彼は今何をそんなに真剣に見つめているのだ。

 私はT君と一緒になってクーラーを見つめ続けた。

 
 そしてとうとうその「点」を私は見つけた。T君は確かにそれを見つめていた。

 それは、クーラーの送風口の端についている水滴であったのだ。
 一滴しかないためにかなり注意しないと分からない。
 その水滴が送風口からの風に揺れている。今にも吹き飛ばされそうである。だが、落ちそうで落ちない。

 それはまるで、孤独なクライマーが強風の中、必死になって氷壁にしがみついているようにも見える。
 そのクライマーは、そこまでの想像を絶する過酷な登攀のために疲労困憊になっている。もう氷壁にハーケンを打ち込む力は彼には残っていない。だが、その強靱な精神が彼をそこに踏みとどまらせている。
 嵐はやみそうもない。
 「ゆっくり休んだらいいじゃないか。眠ればいい。」と深い漆黒の谷底は誘いをかける。
 休みたいと彼は思う。眠りたいと彼は思う。だがこの場所で休むことは死を意味する。眠れば永遠に目覚めることはない。手を離せば死が待っている。
 嵐がやむのが先か、彼が氷壁から落ちるのが先か・・・。

 何度も水滴は落ちそうになる。だがぎりぎりのところで踏みとどまる。それをT君は見つめているのだ。
 私も思わず見入ってしまった。・・・なんだかものすごい世界がそこにはあった。

 私がT君の肩に手を置き、水滴を指さし「見つけたぞ。」と目で語りかけると、T君は私を見返しニヤリと笑った。


 文化祭の時にカラオケ大会があった。
 全校生徒が体育館に集まり、我こそはと思う者が名乗りをあげて熱唱するのだ。5人の者が舞台に上がる。なんとその中にT君がいた。
 T君は最後に歌うこになった。どの生徒もなるほどそれなりに歌がうまい。みんなちょっと照れていたが、全校生徒の前でスッポットライトを浴びて歌うのだ。たいした度胸である。
 私はT君の番が近づくにつれ、そわそわしてきた。そして自分が歌うわけでもないのに緊張し、胸が高鳴った。

 T君は舞台のそでで、じっと体育館の天井を見つめたまま立ち尽くしていた。
 T君の番がまわってきた。司会者役の生徒がT君を紹介する。拍手が起こる。T君がマイクをつかむ。上を向いたままだ。イントロが流れる。どこかで聞いた曲だ。古い外国のロックだ。だが曲名は分からない。彼はおもむろに歌い始める。

 T君はすごかった。圧倒的であった。
 英語の歌詞は完全に彼の頭の中に入っていた。彼は目をつむりシャウトする。そしてジャンプする。腕を振り回す。舞台を走り回る。
 会場からどよめきがおこる。体育館中がはじける。生徒達が声をかけ手拍子を送る。先生達も立ち上がる。矢沢永吉や忌野清志郎にも負けていない。

 彼は腰を振る。独特のステップで駆け抜ける。観客を指さす。シャウト、そしてジャンプ。・・・最後は片膝をつきマイクを観客に向けてフィニッシュ。

 体育館中から怒濤のような拍手が湧き起こった。体育館が揺れているのを感じた。
 恥ずかしながら、私は涙を拭いながら拍手を送っていた。
 審査はその後、会場からの拍手の多さで行われた。T君は圧倒的な大差で優勝。
 割れんばかりの拍手の渦の中、校長先生から商品と花束をもらい、ジャンプして舞台から降り立った。


 「初めまして。」・・・彼は今でも私に会うとそう声をかけてくる。
 だが、3年生になってちょっと変わったことがある。それは、いつも私のことをフルネームで「~ケン」と呼び捨てにしていたのだが、「~ケン先生」と言うようになったことだ。誰かから注意でも受けたのだろうか?

「おーう。~ケン先生、初めまして。今何時ですか?」
「今?えーと1時47分。もうすぐ授業だよ。」私は必ず時計を見て正確な時間を伝えることにしている。
「あーそうですか。ありがとうございます。」彼はそう日本語で答えると、独特なステップを踏み、私から滑らかに離れていった。

 彼の揺れる背中が、以前よりちょっとばかり大きく見えた。