2012年9月26日水曜日

韓国を食べる・その1

 卒業生4人が韓国に遊びに来た。
 私はこの4人の担任でもあったし、部活動の顧問でもあった。このうち3人とは時々会って、懇親会を開いていたが、4人そろって会うのは久しぶりのような気がする。
 4人はそれぞれの土地で、それぞれの仕事について頑張っている。私がうらやましいと思うのは、こうやってこの4人がたびたび会いながら、親交を深めていることだ。たぶん一生続くんじゃないかなと思う。

 私からすると4人は高校時代と全く変わりなく思える。いや、笑えるくらい変わらない。もちろんそれぞれがいろんなことがあって、あの頃よりはずっと大人になっているのだと思う。つらいことも苦しいこともきっとあって、その一つ一つを乗り越えてきたはずだ。だけど私にしてみればやはりあの頃と変わりなく思えるのだ。

 この4人は本当に気さくで、こちらのことを信頼してくれているので、私も全く気を使うことなく話すことができる。とにかく自然体でいられる。自分が自分でいられるというのは、本当にありがたい。そして心の底まで洗われる。


 今、私は韓国で日本語を教えているが、なかなか本来の自分でいられない。深い海の底の深海魚のように自分を押さえつけて日々を過ごしている。それを解放できる性格ならばいいんだけど・・・、なかなかそうはいかない。

 だから4人と話をしながらの食事は、ひさしぶりに「美味い。」と思えた。4人が食べている姿を見ているだけで温かい気持ちになった。・・・そう。見ているだけで幸せな気持ちになるのだ。
 気心しれた者との食事は美味い。やはり仲間や家族と食べるのが一番だ。

 私はこちらではほとんど一人で食事をとっている。
 どの食事も美味いのだが、温かい気持ちにはならない。
 朝は宿の近くにあるユウシン食堂で、ゴミ清掃員のおじさんに交じりながら黙って食べる。昼は学校の食堂で、他の先生方と一緒に黙って食べる。夜は宿でテレビを見ながら一人黙って食べる。ただ懇親会があったり、カン先生に山小屋に誘われた時などは、少しばかり会話をする。だが、本当の自分でいられるわけではない。やはりそれなりに気を遣いながら食事をする。

 とまぁ、ここまで記してきて、ちょっと今まで出会ったおいしいものを紹介しようという思いになった。韓国好きの人ならばおなじみのものばかりだけど、以下に少しばかり記してみる。

















 これは同僚の先生に誘われて行った。魚の名前は忘れてしまったんだけど、たぶんコノシロじゃなかったかなぁと思う。店の前に水槽があり、その場で調理してくれる。右のように野菜に包んで食べてもいいし、コチュジャンやカンジャン(韓国しょう油)で食べても美味い。韓国の人は、まず焼酎をグイッと飲み、これを頬張る。やめられないほど美味いです。
 そして、いつもお金を払わせてもらえない。もう先輩達からは、100回くらいはおごられていると思う。自分がご馳走したのは数回しかない。うーむ。本当にお世話になっている。


 ミルミョン。
 なんとなく小腹が空いているときは、これが一番。市場に出かけ、ぶらりと店に入って食べる。アジュンマ(おばちゃん)が一人でやっている、テーブルが二つあるだけの小さな店だった。だが、味は絶品。こういうなんでもないようなものが、やたらと美味かったりする。地元の人しか行かない店って、やっぱり美味いんだよなぁ。


  
 
 これはキム先生の自宅に招待された時。この他にもいろいろな料理がじゃんじゃん出てきた。そしてどれもこれもやたらと美味い。キム先生の家族とみんなで食事をした。帰るときには、大量の食材が入った巨大なタッパを持たされた。
 
 キム先生は転勤してしまい、私の生活はそれからガラリと変わった。
 それにしても、あんなに前向きに生きている人に初めて会ったような気がする。そしてやたらと情が深いのだ。いろいろなことを学ぶことができた。あの人に出会えたことを本当に感謝している。


 
 これはキジ鍋。
 職場の部長クラスの人に誘われた。肉に歯ごたえがあってとても美味しかった。そしてこの濃厚なスープ。見た目はそうでもないのだが、泣けるほど美味いのである。あのスープのダシの味には参った。これもビールと焼酎がよく合う。やはり偉い人たちはちょっと美味い物を知っているのだ。
 
 
  
 そしておなじみのプルコギ。
 私が住む街の中学、高校の社会の先生が作っているバレーボールサークルがあり、そこに見学に連れて行かれた。半ば強引に。見るだけの約束だったのに、試合に参加することになった。みんなはユニフォームもそろえていて、手にはテーピング、やたらと本格的である。その時、私は、ジーパンにトレッキングシューズを履いていた。どれだけ断っても、「それでもかまわない。」ということでゲームに出ることになった。

 今でも不思議なのだが、その時の私は奇跡のようなレシーブをくり返し、みんなから喝采を浴びた。そして打ち上げにも誘われたというわけである。何故あんなプレーができたのかは分からない。もう二度とできない気がする。だがあの奇跡のようなプレーが、このプルコギにつながったというわけだ。
 味付けは全く辛くなく、甘みがあった。肉がとろけるように軟らかかった。冷えたビールに最高に合うのだ。みんなものすごい勢いで飲み、食べていた。



  カン先生の山小屋に誘われた時はだいたいこのパターンだ。
 食事は全て外。月や星を見ながら肉を炭火で焼く。野菜はカン先生の畑で採ったものだ。
 カン先生はマッコリが大好物。マッコリを飲みながら語り合い、ゆっくりと時間をかけて食事をする。

 以前、大学時代、友人と二人で何度か山や川にキャンプに行った。
あの時も、酒や食べ物がやたらとうまかった。火の向こう側で語り続ける友人の話に爆笑していたのを思い出す。それにしても彼の話は、何故いつもあんなにおもしろかったんだろう?

 満天の星空の下、火を見つめながら友人ととる食事って、・・・なんであんなに美味いんでしょうねぇ?


2012年9月6日木曜日

体の中の海

 六匹の子犬が産まれていた。
 まだまだ幼いと思っていたメス犬は、しっかりとした母になっていた。
 もう風貌から違う。落ち着いている。そして眉間の辺りに憂いのようなものがあり、少し疲れているようにも思える。乳房はしっかりと張り、母親としての貫禄さえ感じられた。
 一方、オス犬の方は、父になったにも関わらず、相変わらず私に飛びついてくる。少し表情が変わったようにも思えるが、やはり無邪気さが残っている。そして自分の子供にはあまり関心を持っていないようだ。
 それでもこの二頭が並んで座っていると、夫婦だなぁと思う。


 彼らは私のことをしっかりと覚えていて信頼してくれているので、赤ん坊を触らしてくれる。まだ両手の中に入ってしまうくらい小さい。抱き上げた赤ん坊の体温は高い。そして小さな胸に耳をあてると心音が聞こえてくる。トクトクトクトク。速い。想像していたよりもずっと速いスピードで、心臓が命のビートを伝えてくる。

 かつて私は、自分の子供がまだ赤ん坊の頃、彼らの心音をよく聞いた。
 ようやく泣き止み、眠りに着く。赤ん坊の胸に耳をあてると、命の鼓動が聞こえてくる。その確かな振るえは、私の耳から入り、やがて私の体全体に染み渡っていく。血流の揺れまで伝わってくる。まるでこの小さな体の中に海があるようにも思える。体の中に波がある。引いては打ち寄せる波の形が目に浮かぶ。このままこの波音をずっと聞いていたいと思ったものだ。


 だから久しぶりだった。
 子犬が私の手のひらの上で身をよじる。私は彼の胸から耳を離し、そっと兄弟たちの中に戻す。子犬は安心したようにまた眠りにつく。
 彼らはまだ一日のほとんどを眠ってすごす。母親が小屋に入ると目を覚まし、乳房にむしゃぶりつく。六匹の子犬は乳房を目がけて身を捩じらせながら突進する。そして乳房に到達すると、急に力を抜き、安心したように乳を吸う。
 しばらくすると母犬は立ち上がり、私の傍にやってくる。頭を撫でてやると気持ち良さそうに目をつぶる。
 子犬たちはもう眠りの中にいる。彼らは今、乳を飲み寝るだけだ。腹を満たし、眠る。眠り続ける。そうやって少しずつ世界を自分の中に取り入れていっている。


 唐辛子の収穫をする。一本一本枝からもぎ取り、丁寧にへたを取る。水洗いし、外に陰干しする。雨が当たらないようにタープを張る。
 私もカン先生もキャンプで慣れているため、あっという間に完成する。二人の動きに迷いはない。そういえば最近、日本でキャンプをしていないな。日本に帰ったら、テントとタープを干さないとな。そんなことをふと思う。

 犬小屋の補修をし、子犬が小屋から出られるようになった時のために、小屋の周りに網を張る。
 オス犬の方に虫がつくので、白い粉状の薬を体に塗りこむ。彼は山の中を走り回るので吸血性の虫を体につけてきてしまうのだ。横に寝かせて体中にまんべんなく塗りこむ。だが彼はこの薬が嫌いなようで、スキがあれば逃げ出そうとする。首輪を押さえて塗りこむのだが、終わると彼は立ち上がり、体をブルルルルと震わせて、せっかく塗りこんだ薬をとばしてしまう。そして私の方を見て尾を振る。やれやれ。


  薬草の実を収穫する。胡椒のような香りがする実だ。この紫色の実にはたくさんのハチやハエなどが集まっている。それらを観察しながら実を収穫していたら、誤って左の小指を鋏で切ってしまう。ざっくりと。傷が深い。自分で自分の小指を切ってしまうとは・・・あきれてしまう。

 小指の根元と傷口を押さえたが血はどんどんあふれ出す。カン先生が驚きすぐにやって来て、絆創膏を巻いてくれた。だが血は止まらない。絆創膏の隙間から溢れ出してくる。絆創膏を何重にも巻き、傷口を押さえて石の上に座る。空を見上げる。雲の下を鳥や虫たちが飛んでいる。

 傷口が痛む。小指が脈打つ。押さえている傷口から血が滴り落ちる。黒い土のうえに赤い滴が落ちる。こんなにも血って赤かったんだなぁと思う。自分も所詮は動物なのだ。あの子犬と同じように赤い血が流れている。


 私の体の中にも海があり、そして波が揺れているのだ。
 海岸の砂浜に座り、波の形を見つめていると落ち着くのは、そのためだろうか。
 ただ体の中の海は、いつかはその動きを止める。波はなくなるのだ。そのことを分かっているのにリアリティーがない。自分の持ち時間は限られているのに、自分の中には永遠の波があるように思ってしまう。

 だが今日、この韓国の山奥で確かに感じたのは、指のズキズキする痛みと、あの白い子犬の速くて力強い鼓動だ。どちらのビートも命の確かな脈動だ。

 今、子犬たちはすやすやと眠っている。彼らはどんな夢を見るのだろう?