イ先生と話し合い、この3月は1ヶ月かけて平仮名をマスターさせることにした。といっても日本語の授業は1単位減となったため週2時間。2年生9クラスに教えることとなった。
平仮名を読めない生徒が昨年は多く、授業についてこられないものが続出していたために、せめて平仮名だけはなんとかしようということになったのだ。
今年の2年生の雰囲気は去年とはかなり違う。真面目な生徒が多いように思う。もちろんいい加減な生徒、やる気の無い生徒もいるが、そういう生徒が少ない。
そして教室にタバコの臭いがほとんどしない。昨年は違った。「おまえ今吸ってきただろう?」と思わず言ってしまうくらい、タバコの臭いがよくした。授業をしていて気分が悪くなるくらい臭う時もあった。酒の臭いがした時もあった。それが今年はほとんどしない。
一度だけ、ポケットにタバコとライターを入れていた生徒がいて、それを見つけたイ先生が没収したことはあった。他にも相当数タバコを持っている者はいると思うのだが、ほとんど臭いがしないのだ。うまく臭いを消しているか、本当に吸っていないかだ。
昨年はタバコの指導を全く受けなかったクラスは1クラスのみ。残りの8クラスは全てたくさんの違反者が出た。クラスの大半が吸っていたというようなクラスもあった。まあこのクラスは退学者、休学者が何人もいて、校外へ逃亡する者も多かったが・・・。
タバコの吸い殻のためにトイレが詰まってしまうこともあった。全く違反者が出なかったクラスは校長先生から全員チャージャーメンを奢ってもらっていた。私も生徒部長から誘われご馳走になり、そのことをその店で知った。
一時間の授業で10文字ずつ教える。
まず私が黒板に大きく一字ずつ見本を書く。そして発話する。その後、生徒は配布されたプリントに一文字につき40回ずつ練習する。一段が終わったところで発話練習。例えば「あいうえお、いうえおあ、うえおあい・・・」というように一文字ずつゆっくりと行う。その後、生徒を指名し、その段の五文字を板書させる。
黒板に見本を記すとき、まずチョークを半分に折る。その横の面を使い太い線で板書する。プリントに見本は記されているのだが、みんな黒板に注目する。そして筆記練習をする時も何度も黒板に記された私の文字を見て確認するのだ。
発話練習においてもそうである。私が発話したとおりに生徒達は大声で発話する。だから訛ったり、どもったりするわけにはいかない。あたりまえのことだが、責任重大である。
自分の人生で、まさか平仮名を教える時が来ようとは思ってもみなかった。
イ先生と机間巡視し、一人一人チェックしアドバイスをおくる。根気のいる作業である。
困ったことがおこる。それは私自身が生徒の平仮名をじっと眺めていると不思議な感覚に襲われるのだ。
例えば「け」という文字がある。これをじっと眺めていると「これって『け』で間違いないよなぁ・・・。あれ、違ったっけな。いや、『け』でいい。間違いない。俺は何を言ってるんだ。大丈夫。これは『け』だよ。『け』でいいんだよ。でもこれなんで『け』なんだろう。」・・・というような感覚に陥ってしまうのである。
「ぬ」が出てきたときもそうだ。「待てよ、ちょっと待った。今俺『ぬ』を『nu』と発話したよな。生徒も大声で『nu!』って発話しているけど。大丈夫だよな。『ぬ』って『nu』であってるよな。待てよ。あれ、間違えたか?いや、待て。大丈夫だよ。何言っているんだよ。『ぬ』は『nu』って読むんだよ。おいおい。どうしちまったんだよ。」・・・なんてことを心の中でつぶやいてしまうのだ。
そして「れ」を教えているときに、私は黒板に記した自分の字を見入ってしまった。「なんだこの形は?なんなんだこの最後の魅惑的なカーブは?これは『れ』だよな?『re』って読むんだよな。何それ?何でこれが『re』なんだよ!それに何なんだよ、この形。最後どこへ行こうとしてるんだよ?他の平仮名は、みんな最後はびしっと地に足を着けてるじゃないか。なのに『れ』よ、おまえはどこに行こうとしているんだよ?おいおいおい。まいったなぁ。おい『れ』!おまえ笑えるよ。なんだかなぁ~。ホント笑えるよ。」・・・という具合に。
そして次の「ろ」の発話練習の時。私はとうとうやらかしてしまった。私は黒板の「ろ」の字を指さしながら生徒に向かって「れ、れ、れ、れ」と発話してしまっていたのだ。イ先生の目が見開かれている。ん?イ先生どうしたの?何か問題でも?生徒達が「あれ?この『ろ』の字も『re』と発音するのか、あれ?」というように首を傾げながら、「れ、れ、れ、れ」と発話しだした。私は自分が指さしている黒板の文字を見る。さっきの「れ」は消され、「ろ」になっている。うわっ!私は間違いに気づき、生徒に謝って発話し直した。「ろ、ろ、ろ、ろ!ろだよ!はいっ!ろっ!」やけくそ気味に大声で。イ先生も生徒達も苦笑いしている。やばい。いくらなんでも平仮名を間違えるとは・・・。
くそー、「れ」のせいだ。全部「れ」が悪いんだ。それにしても「れ」は「わ」に似ているなぁ~。「ね」にも似ている。なんだよ、おまえら何なんだよ。
「る」と「ろ」もやばいぞ。油断できんぞ~。
「ぬ」と「め」も間違えるかもしれない。いや、間違えるわけないじゃないか。俺は日本人を40年以上やっているんだぞ。いや、わからん。なめちゃいかん。侮ってはならんぞ。集中せよ。生徒は俺を信じている。俺がミスを犯せば、そのとおりに覚えてしまう。
「あ」は大丈夫なんだけど・・・「む」はやばいぞ。書いているうちに意識が飛んでしまうぞ。
待てよ・・・。「く」は「ku」だよな。いいんだよな。じゃあ「へ」は?あれ?こっちが・・・どっち?そっちが、あっちだろう?
・・・というように平仮名というのは見れば見るほど抜けられなくなるのだ。
これにカタカナが来て、漢字が来る。ローマ字まで混ざってくる。
日本語・・・深いぞ。深すぎるぞ。
私の平仮名との格闘はこれからしばらく続く。相手にとって不足は無い。
日本語という土俵は広大な宇宙のようだ。
その土俵の上で、平仮名が横綱のように悠々と四股を踏んでいる。