2011年12月27日火曜日

明日で授業は終了。29日から冬休みに入る。
  11月から全ての授業を単独で行うことになり、いろいろとうまくいかないことが多くなった。言葉が不自由なのでクラスコントロールが難しい。だが生徒達の協力もあり、なんとかここまでたどり着けた。はっきり言って自分自身、これはいい授業だったと思えるものはなかった気がする。それでも生徒達は付き合ってくれた。そしてたくさん助けられた。


  放課後授業の方は少人数制ということもあり、いろいろ実験的なことを行った。このメンバーとは一緒にバスに乗って街に出て食事をしたり、日本に手紙を送ったりもした。

出会ったころは「こんにちは。」しか言えなかった生徒が、今ではゼスチャーを交えながら私と日本語でコミュニケーションをとる。・・・若い脳みその力は恐ろしい。

日本の女子高生あてのラヴレターの添削等もした。ラヴレターを書いたこの生徒は、交流事業で本校に来校した日本のある女子高生に惚れてしまったのだ。そして日本語でラヴレターを書き上げた。めちゃくちゃな日本語だったが、彼の熱い思いが一文字一文字に宿っていた。心を込めた手書きの文字には魂が宿る。そう確信した。・・・恋の力は恐ろしい。


  今年の漢字が「絆」になったということをネットで知った。3月のあの震災が、あらためて人と人との関係を見直させたのだと思う。家族を突然失った方々の深い悲しみは「時間」だけしか癒すことができないと思う。それは経験的に分かる。

今一人、異国の地で教壇に立っていて、「 」という言葉の重みをひしひしと感じる。


   韓国の私の職員室の机には「絆」と記された湯呑みがある。日本から持ってきたものだが、今はペンたてとして使っている。これは部活動の生徒らが、卒業していく時に色紙と一緒にくれたものだ。渡航前荷造りをしている時、ふと思いがよぎり、旅行かばんの中に入れたのだ。

 今まで関わってきた部活動は、どれも自分が経験したことのない競技ばかりであった。だから自分は見続けることしかできなかった。そして時々、気合を入れるために声をかけるだけであった。生徒たちは自分達で練習メニューをたて、それをこなし、どんどん成長していく。人間としてもどんどん大きくなっていく。それを近くで見ていて肌で感じた。私が頼りない分、生徒達は自立していった。指示を待たない。何も求めない。自分達で考え動く。そんな姿を毎日ずっと見続けていた。「こいつらすごいな。」と心の中でつぶやくことがたびたびあった。そして練習中にも試合中にも見ていて胸が熱くなることがよくあった。


 部活で関わった生徒たちだけでなく、担任をした生徒達や授業で関わった生徒達からも多くのことを学んだ。・・・今まで出会った生徒たち、みんな元気でやっているかな?しんどいことも、悲しいこともあると思うけど、全てが自分の財産と思って乗り越えていってほしいな。そのためにも健康であってほしい。しっかりと寝て、食べて、そして動くべし。
 我々もドウブツなのだから・・・。ドウブツとは「動く物」と書きます。動き続ける人であってください。


年末年始は家族と韓国で過ごします。1月にはしばらく一時帰国します。
 

 今年一年ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

 2012年が皆さんにとって素敵な年になりますように。


2011年12月20日火曜日

四人の女帝達

1219日月曜日、朝、いつもの食堂で朝ご飯を食べているとき「金正日総書記死去」のニュースがながれた。食堂のアジュンマ(おばさん)もゴミ清掃員のアジョッシ(おじさん)達もニュースを見入っていた。朝鮮半島の歴史が変わる。動く。この歴史の転換期に朝鮮半島に暮らしていることに運命を感じる。しっかりと現場の空気を味わいたいと思っている。


  「この学校にはものすごく強い女性教員が三人いる。校長先生や教頭先生も恐れている。」・・・あるときキム先生がそう教えてくれた。

一人は美術の先生、小柄だがものすごいオーラを発している。ファッションも個性的だ。笑い方が印象的でクククケケケケケーと大声で笑う。私にはハロー、センキューといつも英語で声をかけてくる。といってもこの二言だけだが。授業中態度の悪かったらしい複数の生徒らを廊下に正座させ、一人ずつ頭をひっぱたいていたことを目撃したことがある。

もう一人は保健の先生、体格がいい。明らかに運動能力が高そうな雰囲気を醸し出しており、女性版長嶋茂雄といった趣がある。体育の男性教員が肋骨を何本か折った時にも余裕の笑顔で対応していた。このあいだ職員会議の時、一人離れたところで腕を組みふんぞり返っていた。とても迫力があった。

そしてもう一人、1日1000人分の食を支えている食堂長。体格が良く、食の番人といった趣がある。私が昼食をとっているとき、「お口に合うかしら?」とよく聞いてくる。私はたとえ辛さのために舌が痺れていても「おいしいです。」と満面の笑顔で言うことにしている。食堂長のただならぬオーラがそうさせるのだ。だが本当においしいのは事実である。          

この三人には学校のみんなが気を遣っているのが何となく分かる。


 だが、もう一人最強の女性がいるのだ。学校の全ての教員が一目置いている女性教員がいるのだ。・・・それがキム先生なのである。キム先生は自分が最強であるという自覚が全くない。

キム先生は学校中の誰からも好かれている。飲み会や食事会ではいつもキム先生が中心となる。何故かみんなが彼女を囲むように座る。そして校長先生も教頭先生もキム先生と話す時には不自然なほどの笑顔になる。いつもは二人とも鋭い目つきをしているにもかかわらず・・・。生徒にも恐れられ、そして慕われている。授業中寝ている生徒には、頭をたたいたり、耳や頬をつねったり、肩でタックルしたり、後ろに立たせて両手を挙げたままにさせたりする。

車の運転もすごい。私はキム先生の車の後部座席で、何度も天井に頭をぶつけたことがある。道のど真ん中でUターンをくり返す。それも携帯で誰かと話しながら、片手で悠然とやってのける。強面のタクシー運転手の激しいクラクションにもおかまいなしだ。


 工業科の男性教員達からも慕われている。工業科の先生で明らかにその筋の風貌をした先生がいるのだが、私とキム先生が歩いている時、その先生が何か声をかけてきた。強面だし声もドスが効いていて恐ろしい。ところがその先生の言葉を聞いたキム先生はいきなりその人のケツを蹴り上げたのだ。その「韓国マフィア」のような工業の先生は悲鳴をあげていた。だが明らかにその先生もキム先生のことが大好きなのである。

飲み会の時、「この学校のボスはあんたの隣にいる人だから。」とみんなが私に向かって言ってきた。みんなから「姉さん」と親しみを込めて言われている。ものすごく世話好きでいつも他人のために親身になって動く。ケチケチしていなくて、太っ腹である。

二人の娘がいるのだが、おもいきり自由に育てている。長女は日本に留学後、フランスに渡りファッションの勉強をしていて、英語、フランス語、日本語が堪能である。次女は宇宙科学を学んでいる。この娘さんとは二度ほど飲む機会があったのだが、「NASAに入るのが夢。」と言ってのけた。彼女ももうすぐフランスに渡るそうだ。・・・二人ともやはりキム先生の血が流れているのだ。


  四人の女性とも50代のようだが、共通点がある。
 目が輝いていて何故か少女のようなのだ。大人っぽく無く、感情の赴くままに動いている。理性よりも思いが先に走ってしまっているような・・・いや・・・うまく言えない。言葉で表現するのは難しい。

 まぁとにかく、私にとっては素敵な大先輩達なのだ。


2011年12月4日日曜日

風呂

部屋にはシャワーしかない。
まぁ韓国では普通のようだが、湯船につかってボーとしなければやはり1日の疲れはとれない。
シャワーというのは車で言えば洗車のようなものでそこには「物思ふ時」がないからなんとも味気ない。シャワーは嫌な思いを洗い流すには最適だが、何かをのんびりと思うことはできない。何もかも全て排水溝へ流れていってしまうから。


熱い湯にゆっくりつかりたいなぁ~と思いぶらぶら街を歩いていると突然建物から髪を濡らした女性が出てきた。カゴを抱えている。カゴにはシャンプーらしきものが見えた。女性は早足で行き過ぎていった。
その建物の前に看板がある목욕と記してある。「沐浴」、つまり風呂のことだ。そうか、銭湯か。そうだよなぁ~、みんなゆっくりと熱い湯につかりたいよなぁ~。
これは運命だ。・・・私は人が偶然と思うようなどうでもいいような出来事をすぐ運命と結びつけてしまうところがある。まぁ私自身はいつも「偶然」とは思っていないのだが・・・。
あの女性が銭湯に呼んでくれたのだ。きっとそうなのだ。


何の用意もないが、まぁなんとかなるだろう。
入り口が二カ所あり「남탕」・「여탕と記してある。「男湯」・「女湯」・・・なんだ、日本と同じじゃないか。
남탕」の扉から入る。すぐに壁があり、小さな窓が地上50センチほどのところに空いている。女湯の扉から入っても結局は同じだ。入り口の扉はご丁寧に二カ所もあるが、扉を開けるとすぐこの小さな窓がある。窓をのぞき込むと狭い部屋があり、人の良さそうなハルモニ(おばあさん)がテレビを見ながら座っている。私と目が合うと「オソオセヨ(いらっしゃい)」と言う。「オルマエヨ?(いくらですか)」「4500ウォン」
・・・お金を払い、引き戸を開けると私は思わず顔がほころんでしまった。全く同じなのだ。日本の銭湯と。
他の客はいなかった。タオルもおいてある。おぉ!石鹸もあるじゃやないか。手ぶらでも大丈夫だったな。小さいがサウナまである。
・・・本当にすっきりした。ずっと体がポカポカしたままで、部屋に戻るとあまりの気持ちよさにそのまま眠ってしまった。
その日以来、時間があるときは銭湯に足を運んでいる。


 東京で暮らしたちょうど10年間、ずっと風呂なし・トイレ共同の安アパートを転々としていたから銭湯通いをしていた。
友人達もみんなそうであった。トイレが部屋についている者もいたが、みんな風呂なしの部屋に暮らしていた。誰もが金銭的な余裕がなかったから、毎日銭湯に行けるわけではなかった。
ヤカンで湯をわかしそれを水で薄め適当な温度にして、裸になり流し場で体を洗ったりなんかもしていた。


ずっと昔、中国のウイグル地区を旅しているとき、2週間以上風呂にも入れずシャワーも浴びられなかったことがある。
 敦煌行きの列車の中で出会った大分県別府出身のオオノさんと、こんな会話をしたのを覚えている。
 「ねぇオオノさん、今何がしたい?」「風呂に入りたい。」「どれくらい入っていないの?」「忘れた。」
 二人とも安宿ばかりを巡ってきたので風呂とは縁がなかったのだ。
 「オオノさん、ちょっと金使って風呂のあるところに泊まろうよ。」「ああ。」
 そして、砂漠の中のオアシス、敦煌に到着。
 久しぶりに湯船に浸かった。じゃんけんで勝った自分から。
 ・・・「極楽」とはこのことだ。皮膚が剥がれるような心地よい感覚がある。脱皮ってこんな感じがするのかなと思ったりもした。
あまりの気持ちよさに私はずっと叫びながら熱い湯に浸かっていた。あんなに叫びながら風呂に入ったのは初めてである。
 「気持ちよかったか?」「うん、極楽。」「極楽かぁ~。」「早く入ってきなよ。その後は冷えたビールで乾杯ね。ゴクラク、ゴクラク~!」なんだか歌うように話してしまう。
 オオノさんは満面の笑顔になり浴室に入っていった。
 しばらくするとウォーというオオノさんの叫び声が聞こえてきた。

体験からの言葉・・・「人は本当に気持ちいいとき、叫ぶようである。」