2012年3月6日火曜日

後ろ姿

 休みの日には必ず一度は外に出ることにしている。アパートから学校まで極端に近いため運動不足に陥ってしまうからだ。
 8時半から勤務が始まるのだが、私は毎朝820分まであるドキュメンタリー番組を見終わった後アパートを出る。この番組は様々な家族の生き様を一週間単位で放送している。毎朝毎朝感動する。そしていろいろな思いに包まれながら学校へと向かっている。それでも間に合う。8時半前には自分の職員室の机に着いている。本当に近い。学校に住んでいるようなものだ。だから毎朝少し川沿いを歩き、休みの日にも外に出ることにしている。そうでないとあまりにも体が鈍ってしまう。

 私と同じように海外で日本語教師として頑張っている仲間達は、ジムなどに行ったりテニスなどをして体を鍛えているようだ。みんなとてもバイタリティーがあり行動力がある。だが、私はとにかく人と関わるのが苦手なので、ジムなどには足が向かない。隣で誰かが体を鍛えていると思うだけで気が滅入ってしまう。
 今は川沿いの草むらの中に獣道のようなものがあることを発見し、そこを一人で歩いている。その道を通る人はほとんどいないようで、誰ともすれ違うことが無く心地良い。草をかき分けながら類人猿のように歩いている。


 その日は城に向かって駅前通りを自転車でのんびりと走っていた。あれっと思った。20メートルくらい前方に一人の人が立っている。その人の横を通るとき、誰もが笑顔になっているのだ。ただその笑顔が引きつっているようにも見える。そして誰もが避けるように側を通り過ぎる。
 私はその人に10メートルくらいまで近づき自転車を止め、ザックから地図を出し、それを見るふりをしながらその人を観察することにした。
 私は目がいい。両目とも視力は1.5だ。この距離でも充分観察ができる。
 白い薄い生地のスカートが風に翻っている。すらりと伸びた足にはかなり高さのある白いハイヒール。手首にはたくさんのブレスレット。いくつかの指輪も光っている。小さな白いショルダーバッグが肩に掛かっている。少し色落ちしたジージャンを羽織っており、そこにはたくさんのバッジが付けられている。この街では見かけることがないファッションである。
 そして何よりも私を驚かしたのはその人の髪である。・・・黄、赤、青、緑に染め分けられているのだ。


 韓国のこの田舎の街でこんな人に出会えるとは・・・。私はうれしくなった。写真に収めたい衝動に駆られたが思い直し、記憶のフイルムに焼き付けることにした。
 私は旅先で、「これはしっかり見ておかなければ。」と思ったときには写真を撮らないことにしている。写真を撮ってしまうと安心してしまい、「見る」力が半減してしまうからだ。だからどんな感動するような風景に出会っても、すぐにはカメラを出さない。もう充分だと思った頃にパチリといく。
 それにしてもその人のオーラはものすごい。周りに居る人の全ての心をつかんでしまっている。

 以前私は高校の文化祭か何かの時、内装で使って余った緑色のスプレーを髪にかけて帰宅したことがある。もちろん水性で、シャンプーをすればすぐとれるものだ。完全な緑色になったわけでなく、まぁうっすらとした緑色である。悪ふざけのつもりで友人にかけてもらったのだ。そして私は自分の髪が緑色になっているのをすっかり忘れて地下鉄や電車に乗って帰った。だが周りの乗客の空気がいつもと違うなと思い、あー髪がそう言えば緑色だったと気がついた。そんな経験がある。

 その人の髪は圧倒的であった。黄、赤、青、緑の四色に染め分けられており、独特の雰囲気を醸し出していた。だが、その配色はけっしてケバケバしい印象を与えはしなかった。絶妙なバランスが保たれていて、見る者を惹きつけてしまうのだ。髪は肩に掛かっており風に揺れている。
 その時の私は、完全にその人に気持ちをもっていかれてしまっていた。私だけではない。その道を通り過ぎる全ての人々がその人を見入っていた。その場に立ち止まり、口を開けて見ている人もいる。それほどその人はこの街の風物から浮いていて、異質な存在であった。

 その人は信号待ちをしている。どうやら大通りを渡り、駅の方へ行こうとしているらしい。
 私はその人の斜め左後ろ56メートル程のところまで近づいた。私の位置からはその人の表情は伺うことができなかった。私はその人の顔を見てみたいという欲求が生まれたが、それにはその人の正面にまわらなければならない。
 私は相変わらず自転車のハンドルに地図を広げ、その人と地図を交互に見つめていた。たぶん他の人が私の行動を見たら、「あいつ挙動不審だなぁ。」と思うに違いない。

 もうすぐ信号が青に変わる。そう思った瞬間、私の指が勝手に動いた。自転車のベルを鳴らしてしまったのだ。私は自分の咄嗟の行動に驚いた。チリリンと乾いた音が鳴った。その人のすぐ後ろにいる何人かがこちらを振り向いた。私は慌てて地図に目を落とす。だが上目遣いにその人を窺うことは忘れない。もう完全に不審者である。
 だが、その人は微動だにしない。白いハイヒールはきちんと揃えられ、胸を張り姿勢がいい。後ろ姿がとても美しい。四色の髪が風に静かに揺れている。白いスカートもひらひらと揺れている。


 やがて信号が青になる。その人は車を確認するために首を振った。右を見て、左を見た。スローモーションのようにゆっくりとその人の顔がこちらに向けられる。私は思わず「あっ!」と声をあげてしまった。
 その人の唇には真っ赤な口紅が塗られていた。その口紅が濡れているように光っている。そしてその唇の周りには濃く長いひげが生えていたのだ。白く細い首には、のど仏が鋭く突き出ている。男だった。それも私よりも明らかに年上だ。目尻には深い皺がある。

 正直に記す。私はその時、深い感動に包まれていた。
 向こうから横断歩道を渡ってくる人たちは、その人を見て苦笑いをしている。嘲るように指を指している人もいる。だが、その人は真っ直ぐ駅に向かって歩いて行く。
 みんなから笑われても、白い目で見られても、避けられても、胸を張って歩くその男の後ろ姿を見入ってしまった。
 「おじさん、尊敬するよ。」・・・私はその男の背中に向かって、本当に声に出して言ってしまっていた。

 一人の人間の熱くて激しい生き様を見たように思った。

 その人は振り返ることなど無く、モデルのように横断歩道を渡っていった。
 ハイヒールの硬い音を残しながら・・・。

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