いつも一本の電話から始まる。サンチョンはカン先生の故郷である。
「何時に行けばいいですか?」
「今すぐだ。」
カン先生からの突然の電話にも動揺しなくなった。カン先生は私を甘やかしたりはしない。他の先生ならば必ず家の近くまで車で迎えに来てくれるのだが、カン先生は違う。現地集合だ。そこまで自力で行かなければならない。
ザックに着替えを詰め、トレッキングシューズを履いて部屋を出る。カン先生はその時の気分で突然山に入ることがあるため、それに備えておかなければならない。
人間というものは学習するものだ。そして経験が新たな世界を呼び込む。
以前生徒から教えてもらった35番のバスに乗る。1100ウォン。街の市外バスターミナルの前で降りる。
切符売り場でサンチョン行きの切符をアジュンマから買う。「サンチョン」と「サッチョン」では全く違う場所に行ってしまうので、発音に気をつける。切符のハングルを確認。「サンチョン」行きの切符に間違いない。携帯が鳴る。カン先生からだ。
「今どこにいる?」
「市外バスターミナルです。」
「よし。」電話は切れる。
予想に反してバスには客がたくさん乗っていた。登山をするような格好の人が多い。バスが走り出すとすぐ睡魔が襲う。うつらうつらしていると、また携帯が鳴る。
「今どこだ?」「サンチョン行きのバスの中です。」
「よし。」
その後、カン先生は韓国語で何事かをまくし立てる。何を言っているのか、全く分からない。まいったなぁ。まぁなんとかなるだろう。
「わかりました。」
全くわからなかったがそう答えておいた。電話は切れる。
やがてサンチョンにバスは着く。カン先生が車にもたれながらタバコを吸っていた。こちらを見てニヤリと笑う。
車に乗せられたと思ったら、しばらく走りすぐに降りる。サンチョンは祭りだった。薬膳や薬酒、漢方薬など韓国の伝統の「薬」をテーマとした祭りである。たくさんの人で賑わっている。薬だけでなく、陶器や韓服、鉢植えや家具、酒や食材など様々なものが売られている。
カン先生とマッコリを飲みながら牛肉のクッパを食べる。たくさんの出店を眺めながら二人でぶらぶらと歩く。カン先生は何かの薬草とお茶を買っていた。
陶器の店が何軒も連なっているところに出る。私はその一軒に入り、コーヒーカップと小さな一輪挿しを買う。
あとどうしても気になった小さな焼き物を手にとっていると、店の人がいろいろと説明してくれた。全く理解できない。韓国語は毎日空いた時間に勉強しているのだが、なかなか力がつかない。だがその女性はジェスチャーを交えながら一生懸命私に伝えようとする。なんとなく分かってきた。この焼き物は、山などに入ったときに樹木や草のエキスを集め、保存するための小瓶なのかもしれない。だが正確なところはわからない。まぁどうでもいい。その変わった形をした焼き物も購入した。
「どうだ、これ?」
「いいですね。」
それはその店に置いてある中で一番大きな壺であった。きっと売り物ではなく、客寄せのためのものだと思う。二人の若い男女が水牛に乗っている様子がデザインされている。二人は恋人どうしだろう。身を寄せ合っている。男は横笛を吹いている。女はその音色にうっとりとしている。水牛が二人を乗せてゆったりと歩いている。山の上に大きな満月がある。ゆるやかな風を感じる。素敵な壺である。私もカン先生と一緒にしばらくその壺を見入っていた。
カン先生は店の人を呼び、何やら壺の説明を受けていた。そして私の方を振り向き、
「俺はこれにする。」と微笑む。
「え?それ買うんですか?」
「ああ。」
「本当ですか?」
「ああ。」
私は驚いた。店の人も驚いている。カン先生はカードで支払いをしていた。店の人は私とカン先生に陶器の風鈴をサービスしてくれた。
カン先生は丁寧に梱包された壺を肩に抱え歩いて行く。
車は山に入る。山の斜面が段々畑になっている。そこで畑を耕していた仙人のように温かい表情をした男が車に乗ってくる。カン先生の幼なじみらしい。そしてカン先生の山へ。
山小屋へ着くと二匹の犬が迎えてくれた。完全なる放し飼いである。初めは私に吠え掛かってきたが、私がしゃがみ込むとしっぽを振って寄ってきた。首や胸を撫でてやる。二匹の犬はじゃれついてくる。二匹とも雑種のようだ。体調は1メートルほどあるが、まだ子供のようである。遊びたくてしょうがないという感じで、私に纏わり付いてくる。だが、カン先生は厳しい。「行け!」と言い、手を上げ蹴るふりをする。犬たちはさっと離れ側に座る。
カン先生は犬を撫でたりはしない。犬はカン先生の全ての指示に素早く従う。犬たちは私に対しては「こいつは大丈夫だ。」と思ったようで、じゃれついてきてずっと側から離れない。
以前ここに来たときは別の犬がいたが、とにかく放し飼いで自由なので、今は山のどこかに行っているようだ。
夜は屋外で、マッコリを飲みながらサンギョプサル(豚の三枚肉)を焼いて食べる。
カン先生の友人は畑仕事で疲れていたのだろう、早々に酔いつぶれ寝てしまった。後は私とカン先生二人で月を見ながらいろいろなことを話す。韓国語と英語をちゃんぽんにして。カン先生とはそんなに会話がなくても一緒にいられる。
山の夜は本当に静かだ。冷えた空気が、マッコリでほてった体を心地よく包み込んでくれる。月明かりが木々を照らす。
二匹の犬もじっと月を見ている。彼らは何を想っているのだろう。犬の顔が、月明かりでほのかに銀色に光っている。
朝起きて山小屋から出ると犬たちが飛びついてくる。カン先生と友人はまだ眠っているようだ。
犬と一緒にしばらく散歩する。葉が朝露に濡れて光っている。
朝食はカン先生とその友人が作ってくれたテンジャンチゲ(韓国味噌鍋)。
その後、私は食器を洗い、ゴミを焼く手伝いをした。山小屋では、それぞれが何かをする。それが暗黙のルールだ。
そして山へ向かう。カン先生の友人は二日酔いのためお留守番。二匹の犬とともに山へ。カン先生が犬に向かって「来い。」と呼びかけると、犬はさっと我々の前に出て先導してくれる。とても賢い。
アップダウンの激しい細い山道に入る。いつものことながらカン先生のペースにはついて行けない。カン先生はものすごい勢いで登っていく。
息が切れて足が重くなる。汗が噴き出てくる。
二匹の犬はなんども私のところへ戻ってくる。「早くおいでよ。」というように私を見つめる。頭をなでてやるとまたカン先生のところまで走っていく。だがしばらくするとまた戻ってくる。二匹の犬はどうやら私のことを心配してくれているようだ。「大丈夫?」というように私を見つめる。
犬に心配される自分。情けないとは思わない。何故だかとてもうれしい。犬たちは何度も私とカン先生の間を往復するため、ものすごい距離を走っていることになる。私はこの二匹の犬がとても好きになった。
木々が生い茂る細い山道を登り切ると、最後は巨大な岩が折り重なっているところに出る。それをよじ登り山頂へ。
犬たちはそこをどうやら登れないようで、岩の下から私をじっと見つめる。
カン先生が「ヤーヨイ、ヨイ」と声を掛ける。犬たちがさっと岩壁に沿って走り出し姿が見えなくなった。そしてしばらくすると突然山頂に現れた。どうやら山頂までの別のルートがあるようだ。犬たちはそれを知っているのだ。
二匹の犬が私に駆け寄りじゃれついてくる。今日はこの犬たちに随分助けられた。私は思いきり撫でてやった。彼らはしっぽを振り、顔を舐めてくる。
岩肌に座り、水を飲む。アパートで飲む水の何千倍もうまい。風が心地いい。遠く連なる山々を見つめる。
犬も遠くを見つめている。彼らの目にはどんな風景が映っているのだろう。
声をかけると犬は私のところまでやってくる。私の手を何度も舐めた後、じっと私を見つめてくる。
犬の瞳の中には、私がいた。そして、私の後ろには青い空が広がっていた。
2 件のコメント:
最後の写真、とってもステキですね☆
カン先生の強引さ、私も好きです!
健父を甘やかさないところなんて、さすがですね!
でも、仙人のようなご友人が一番気になるかも(笑)
カン先生は、ちょっと今まで会ったことのないようなタイプの人です。ものすごく自分勝手で、ものすごく優しいです。そして細かいことを気にしません。
週五日働き、週末は山で暮らしています。家族はあきれていると思います。本人もそう言ってました。
友人の仙人のような人はふわりとしていました。マッコリを飲みすやすや寝てしまい、朝はパンツ一丁でゆらりと歩いていました。
一番まともなのは二匹の犬でした。
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