2012年9月6日木曜日

体の中の海

 六匹の子犬が産まれていた。
 まだまだ幼いと思っていたメス犬は、しっかりとした母になっていた。
 もう風貌から違う。落ち着いている。そして眉間の辺りに憂いのようなものがあり、少し疲れているようにも思える。乳房はしっかりと張り、母親としての貫禄さえ感じられた。
 一方、オス犬の方は、父になったにも関わらず、相変わらず私に飛びついてくる。少し表情が変わったようにも思えるが、やはり無邪気さが残っている。そして自分の子供にはあまり関心を持っていないようだ。
 それでもこの二頭が並んで座っていると、夫婦だなぁと思う。


 彼らは私のことをしっかりと覚えていて信頼してくれているので、赤ん坊を触らしてくれる。まだ両手の中に入ってしまうくらい小さい。抱き上げた赤ん坊の体温は高い。そして小さな胸に耳をあてると心音が聞こえてくる。トクトクトクトク。速い。想像していたよりもずっと速いスピードで、心臓が命のビートを伝えてくる。

 かつて私は、自分の子供がまだ赤ん坊の頃、彼らの心音をよく聞いた。
 ようやく泣き止み、眠りに着く。赤ん坊の胸に耳をあてると、命の鼓動が聞こえてくる。その確かな振るえは、私の耳から入り、やがて私の体全体に染み渡っていく。血流の揺れまで伝わってくる。まるでこの小さな体の中に海があるようにも思える。体の中に波がある。引いては打ち寄せる波の形が目に浮かぶ。このままこの波音をずっと聞いていたいと思ったものだ。


 だから久しぶりだった。
 子犬が私の手のひらの上で身をよじる。私は彼の胸から耳を離し、そっと兄弟たちの中に戻す。子犬は安心したようにまた眠りにつく。
 彼らはまだ一日のほとんどを眠ってすごす。母親が小屋に入ると目を覚まし、乳房にむしゃぶりつく。六匹の子犬は乳房を目がけて身を捩じらせながら突進する。そして乳房に到達すると、急に力を抜き、安心したように乳を吸う。
 しばらくすると母犬は立ち上がり、私の傍にやってくる。頭を撫でてやると気持ち良さそうに目をつぶる。
 子犬たちはもう眠りの中にいる。彼らは今、乳を飲み寝るだけだ。腹を満たし、眠る。眠り続ける。そうやって少しずつ世界を自分の中に取り入れていっている。


 唐辛子の収穫をする。一本一本枝からもぎ取り、丁寧にへたを取る。水洗いし、外に陰干しする。雨が当たらないようにタープを張る。
 私もカン先生もキャンプで慣れているため、あっという間に完成する。二人の動きに迷いはない。そういえば最近、日本でキャンプをしていないな。日本に帰ったら、テントとタープを干さないとな。そんなことをふと思う。

 犬小屋の補修をし、子犬が小屋から出られるようになった時のために、小屋の周りに網を張る。
 オス犬の方に虫がつくので、白い粉状の薬を体に塗りこむ。彼は山の中を走り回るので吸血性の虫を体につけてきてしまうのだ。横に寝かせて体中にまんべんなく塗りこむ。だが彼はこの薬が嫌いなようで、スキがあれば逃げ出そうとする。首輪を押さえて塗りこむのだが、終わると彼は立ち上がり、体をブルルルルと震わせて、せっかく塗りこんだ薬をとばしてしまう。そして私の方を見て尾を振る。やれやれ。


  薬草の実を収穫する。胡椒のような香りがする実だ。この紫色の実にはたくさんのハチやハエなどが集まっている。それらを観察しながら実を収穫していたら、誤って左の小指を鋏で切ってしまう。ざっくりと。傷が深い。自分で自分の小指を切ってしまうとは・・・あきれてしまう。

 小指の根元と傷口を押さえたが血はどんどんあふれ出す。カン先生が驚きすぐにやって来て、絆創膏を巻いてくれた。だが血は止まらない。絆創膏の隙間から溢れ出してくる。絆創膏を何重にも巻き、傷口を押さえて石の上に座る。空を見上げる。雲の下を鳥や虫たちが飛んでいる。

 傷口が痛む。小指が脈打つ。押さえている傷口から血が滴り落ちる。黒い土のうえに赤い滴が落ちる。こんなにも血って赤かったんだなぁと思う。自分も所詮は動物なのだ。あの子犬と同じように赤い血が流れている。


 私の体の中にも海があり、そして波が揺れているのだ。
 海岸の砂浜に座り、波の形を見つめていると落ち着くのは、そのためだろうか。
 ただ体の中の海は、いつかはその動きを止める。波はなくなるのだ。そのことを分かっているのにリアリティーがない。自分の持ち時間は限られているのに、自分の中には永遠の波があるように思ってしまう。

 だが今日、この韓国の山奥で確かに感じたのは、指のズキズキする痛みと、あの白い子犬の速くて力強い鼓動だ。どちらのビートも命の確かな脈動だ。

 今、子犬たちはすやすやと眠っている。彼らはどんな夢を見るのだろう?

 

4 件のコメント:

tomy さんのコメント...

ずっと昔に、子犬を膝に抱いた時の温もりを思い出しました。

命って、奇跡の集まりですね。

健父 さんのコメント...

そうですね。
こうやって自分たちが生きているのも、ある意味奇跡かもしれないですね。

それにしても、自分以外の命に触れるのは、どうしてこんなにも心地いいんでしょう?

末っ子 さんのコメント...

毎回深いです。
いろんなことを考えさせられます。
こんな風に、考える時間があるということも幸せなことですね!
日本にいたら毎日時間に追われて、自分のことすらも考える余裕がないこともあるし…。
今のこの2年間を外国で過ごせるということは、本当にすごいことですね!

健父 さんのコメント...

そうですね。たぶんこの仕事を続ける限り、こんな時間を持つことは二度とないように思います。
日本では「忙しい。忙しい。」と言いながら、自分の残りの持ち時間をすり減らしてしまう日々ですからね。
もしかしたら日本人は何かを恐れているのかもしれないですね。
忙しくしていれば、感じなくてもいいですからね。
というわけで、私は今日も朝陽を眺めてきました。
すごくきれいで、震えました。