2013年2月2日土曜日

街外れの王国

 新学期が始まり、生徒達と再会。欠席者が多い。まだ冬休みを続けている者もいるようだ。
 髪の毛を染めている者が増えていた。特に5組の彼は明るいオレンジ色に染めてきた。身長は190センチ近くある。目立ちすぎだ。「みかん人間」が歩いているようなものだ。
 パーマをかけてきた生徒も多い。なかなかみんなおしゃれだ。この冬休みに新しくできた彼女の写真を見せてくる者もいる。

 どのメンバーも相変わらず授業を全く受ける気はないようだが、笑顔で挨拶してくるし、いろいろとこっちにちょっかいを出してくる。なんだかホッとする。真面目なメンバーも、もう教科書や筆記用具は持ってこない。体一つで学校にやってくる。もう今は来年度のための消化試合といった感がある。


 韓国は3月から新年度が始まるためそれも頷ける。今はもう年度末にあたるのだ。
 学校中の片づけや新装工事が行われている。
 先生方も来年度の校務分掌のことでよく話し合いをしている。誰が転勤で、誰がどのクラスを受け持つか・・・。

 新入生は1クラス20人になる。現在の30人学級から、何とさらに10人減らすのだ。今までのようにやんちゃな生徒は入学できない。
「来年度から学校が良くなるぞ。」とみんな目を輝かせている。来年度の話ばかりしている先生方に、私はちょっと溶け込めないでいる。私はもうその時にはここにいない。

 警報ベルが鳴る。教頭先生が飛び出していく。
 またタバコだろう。もうこの音に慣れてしまった。しばらくすると案の定、「4階のトイレで複数の生徒が喫煙。センサーが作動。」とメールが入る。日本の自分の勤務校ならば大問題となるところだ。だが、ここでは日常である。「あいつらまたやっているな。」くらいにしか思わなくなってしまった。「慣れ」とは恐ろしいものだ。他の先生方も警報ベルに全く反応していない。

 やっぱり学校は生徒が来ると活気がでる。生徒のいない学校は落ち着くのだが、どんよりとした時間がそこにはあるだけだ。
 生徒が来た学校はまるで巨大な生き物のように動き出し、呼吸を始める。

 
 先日、卒業生とその友人が日本から遊びに来た。卒業生らが遊びに来たのはこれで2回目だ。釜山で再会し、食事を共にする。
 
 二人ともしっかりしている。会話を交わしていても自分が一番子供っぽい気がしてくる。二人よりも20年以上長く生きているのだが・・・。
 それでも社会で生きていくというのは、やはりどの世界でも大変なようで、二人ともそれぞれ迷いを抱えているようだった。
 私はこうして卒業生らと異国の地で杯をかわすことの不思議さを感じていた。二人の話に耳を傾ける。
 
 その時、突然携帯電話が鳴った。別の代の卒業生からだった。会社である事態に巻き込まれて辞めるかどうか迷っているようだった。私は状況と今の心情を聞き、直感でアドバイスをおくる。私の言う「直感」とは「その時の気分」でもないし、いわゆる「一般常識」でもない。自分の経験からの言葉である。もちろんその言葉には責任がともなうが、自分にできるのはそれしかないと思っている。
 
 電話を終え、前に座る二人に「卒業生からの相談事だった。」と言うと、二人は頷く。
 一人が私を見つめながらこう呟いた。
「相談してきた時点で、その人、きっともう自分の中で答えは出ているんだと思う。」
 
 私ははっとさせられた。そうかもしれない。卒業生らはもう自立して生きているのだ。いつまでも「生徒」と思っているのは自分だけなのかもしれない。もうみんな一人の自立した大人なのだ。
 私は恥ずかしくなった。最近、どの時代の卒業生に会ってもこうやって恥ずかしくなることが多い。かつての「生徒」たちはずっと成長している。いつまでたっても成長しないのは、この自分なのだ。

 
 成長しないと言えば、このこともそうだ。
 私は異国の地の街外れにあるひっそりとしたバーに、一人で気軽にふらりと入れるようになりたいとずっと以前から思っているのだが、いまだにやたらと緊張する。そういうことを平気で行える人を羨ましく思う。

 そのネオンは暗闇の中に浮かび上がっていた。
 場所は珍島(チンド)の中心街の西の外れ。時間は夜の8時頃だったと思う。何故こんなところに・・・と思われるような、街外れの周りに何もないところにその店のネオンは光っていた。

 店の近くに四輪駆動車と大型のバンが停まっている。そして店の周りには鉄製の犬小屋がいくつかあり、6匹の犬が距離をおいて繋がれていた。犬たちが私をじっと見つめる。
 私はそのバーの扉を押すことはできなかった。言いようのない独特の雰囲気をその店は醸し出していたからだ。だが私を惹きつけてやまないのは、店のネオンに「JAZZ」の文字があったからだ。

 韓国の南西にある珍島。その街外れの暗闇の中に6匹の犬に守られながらあるジャズバー。たぶんもう二度とここに来ることはないだろう。そう思った私は意を決して扉を押した。そしてすぐ後悔した。音楽が流れていなかったからだ。


 中央にあるテーブルについてパソコンを眺めていた男が驚いたようにこちらを見つめる。髪には白いものが交じり、目が鋭い。オールバック。菅原文太に似ている。怖い。私は店をすぐ出たくなった。だがそうもいかない。

 店の内部は驚くほど洗練されていた。真正面には壁一面にJBLの巨大なスピーカー群がならび、右側にはカウンターがある。並ぶグラスはピカピカに光っていた。観葉植物の鉢植えが所々に並んでいるのだがよく手入れされているのが分かる。いくつもの間接照明を使い、落ち着いた雰囲気を作り出している。左手には上下に何段か階段があり、その先に小さな個室があるようにも思える。不思議な作りだ。建築物としてもかなりのこだわりが感じられる。

 菅原文太に似たマスターは怪訝そうに私を見つめる。他の客は誰もいない。
「一人?」と聞いてくる。私が頷くと個室の方に案内される。「一人なのでカウンターがいい。」というと、マスターはちょっと困った顔をして頷く。普段カウンター席は使っていないようで雑誌や書籍が置かれていた。マスターが「ここでもいいか?」と中央のテーブルの向かいの席を指さす。私は頷く。

 ジャズが流れ出す。私はギネスビールとミックスナッツを注文する。メニューを見ると値段は韓国のそこらの店の2倍から4倍に設定されている。だがメニューがあるだけ良心的に思えた。

 私の向かいにマスターは座る。ビールを勧めたが、首を横に振る。ミネラルウォーターを指さす。

 それから私は1時間あまりその店にいた。片言の英語と韓国語で菅原文太似のマスターとずっと語り合った。

どこから来た?」
「日本です。」
「日本?仕事で?」
「はい。今休暇中で、ここまで来たんです。」
「そうなんだ。」マスターは不思議そうに私を見つめる。
「歩いていたら、突然この店のネオンがあったんで・・・。」
「そうなんだ。」

 
「この島に他にジャズバーなんてあるんですか?」マスターは少し眉を寄せる。
「ないね。ここだけだ。ジャズを好きな人間もほとんどいない。」
「じゃあ、お客さんは?」マスターは微笑む。初めて見た笑顔は素敵だった。菅原文太の笑顔が素敵なように・・・。
「客はほとんどいない。俺の趣味でやってるんだよ。」そう言ってマスターは店の中をゆっくりと見回す。
 工夫が凝らされた間取り、センスのある内装、そして豪華なオーディオ機器、くもり無く光るグラス、手入れされた観葉植物、ずらりと並べられたCD、テーブルの上のアップルコンピュータ。お金を稼がなくてもいい身分なのだろう。客は別に来なくていいようだ。ここはマスターの王国なのだ。

「この島で生まれたんですか?」
「いいや。ソウルだ。ここに来て20年くらいかな。」
「このスピーカーなんかはどうしたんですか?」
「ここにあるもの全部、ソウルから運んだ。ソウルにいたときに持っていたものだ。」
「ソウルでもお店を?」
「いいや。」マスターは首を振る。その時、少し寂しげな表情をしたように思えた。

「犬がたくさんいますけど?」
「ああ、犬は好きだ。それにワイフが珍島犬センターに勤めているからね。」
 
 
 それからしばらくは、東京のジャズバーやジャズ喫茶の話をしたり、村上春樹の話をしたりした。
 
「マスターの好きな韓国人作家は?」そう聞くと、菅原文太似のマスターはちょっと宙を見つめ、メモ用紙に一人の男の名をハングルで書いて渡してくれた。
 
 私が店を出るときマスターは黙って右手を差し出してきた。私はその手を握った。大きく温かい手であった。
 
 店の外に出ると寒さが増していた。
 
 6匹の犬たちはみんな丸まり、眠りについていた。
 
 
 

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