2011年11月3日木曜日

カン・サングウという男 ②


 アスファルトの道が終わり砂利道になる。車が激しく揺れる。しばらく山道を登ったり下ったりする。その行き止まりがカン先生のフィールドであった。
 「俺のセカンドハウスだ。週末にはここに来ている。友人たちもここに集まる。」と言う。
 山小屋は二棟あり一つはゲスト用。電気も通っており何の不自由もない。
 山に囲まれた敷地はとても広く全てがカン先生のフィールドなのだ。
 小さな池が二つ。一つは自然のもので、もう一つはカン先生が自分で時間をかけて造ったとのこと。白菜、唐辛子、シイタケ、カボチャなども栽培している。リスが倒木の間からこちらを眺めている。

 犬小屋があったので「犬がいるんですか?」と尋ねると「ああ。」と言う。「今どこにいるんですか?」「わからない。自由だからな。」なるほど、犬もこの山で自由に生きているのだ。
 ふとインドで出会った黒い犬を思い出す。そういえばあの黒犬も海岸沿いで自由に暮らしていた。朝、散歩の途中砂浜に座り込み海を眺めているとどこからともなくあの黒犬はやってきた。海に入っていたのだろう。体は海水で濡れていた。私のそばに来て、いつもじっと見つめてきた。


 熱くて香ばしい香りのする高麗人参茶を飲んだ後、夕食の準備をする。カン先生は野菜を切り、私はニンニクを剥く。練炭と炭にバーナーで火をつけ肉を焼く。外に据えてある木製のがっちりとしたテーブルで食べる。薄暗くなってきた空に月が光りだす。


 カン先生はほとんど英語で話す。私は英語と韓国語をごちゃ混ぜにして話す。お互い言葉は不自由だが何故か意思は伝わる。それぞれの生い立ちや家族のこと、勤務校のこと、韓国のこと、そして今の日本のこと。
 カン先生は20年近くソウルで教員生活をしていたが生まれ故郷に近い学校に勤めることにして、家族ともども移ってきたそうだ。そしてこの山の敷地を買いセカンドハウスを建て、週末をここで過ごしているらしい。
 今の学校は教員も生徒も考え方が狭く新しいことに挑戦するということがないとのこと。「でもまぁ生徒は素直だし、温かいところありますよね。」と言うと「それだけじゃだめなんだよ。もっといろいろなことに挑戦しなくちゃな。」
 韓国は小さく国の力も弱いためいつもいろいろなところからプレッシャーを与えられている。だから徴兵制度もある。南北の統一はこの半島に暮らす誰もが願っていると思うが、大国はそれを望んではいない。今の緊張関係を維持しておきたいと思っているに違いない。韓国はいつも大国に利用されているからな。肉を焼きながらカン先生はそんなことを話してくる。
 「でもサムソンのような世界的な企業もあるじゃないですか。」「ああ、確かにな。だけどじゃあその利益はどこに流れていると思う?いつもこの半島は大国に利用されているんだよ。」
 カン先生はマッコリをいっきに飲み干すと、タバコに火をつける。「日本は韓国にしたことに対して何故謝らないんだ?」「今の日本について話してみてくれ。」私は何も答えられなかった。 赤く染まった炭を見つめたまま言葉が出てこなかった。歴史を真剣に学んだこともなければ、日本についてじっくりと考えたこともない。
 だがカン先生は深くは追及してこない。私が答えられないでいると、「今日は月がきれいだから月明かりだけで飲もうか。」と言い、ライトを消す。
 空の月が存在を顕にする。そして全てのものの輪郭が際立ち、白と黒だけの世界が広がる。
 カン先生を前にしていると自分がいかにつまらない小さな人間であるかを思い知らされる。この韓国の山奥で月明かりの下、一人の男を前にして、自分の人間としての度量というものをあらためて確認することができた。
 時々お互いに言いたいことがうまく言えず沈黙が訪れる。その間を、ビールとマッコリ、白く輝く月、そして冷たい山の空気が埋めてくれる。
 夜になり体が急に冷えてきた。「寒いか?」とカン先生が英語で聞く。「寒いです。」と韓国語で答える。
 部屋に入り巨大なヒーターのスイッチを押す。このヒーターはカン先生の友人からのプレゼントらしい。その他にも山小屋にあるものはほとんどが友人たちが贈ってくれたものなのだそうだ。この巨大なヒーターはものすごく強力で、あっという間に部屋全体を暖めてくれた。
 部屋の壁に木彫りのレリーフが飾られている。『心清事達』と彫られている。それを眺めていると「意味は分かるか?」と聞いてくるので「ええ、分かります。」と答える。「じゃあどんな意味か言ってみろ。」と言うのでめちゃくちゃな英語でなんとか意味を答えると、カン先生は笑顔になりうれしそうにタバコをふかす。きっとあの言葉がカン先生の座右の銘なのであろう。
 私はゲスト用の山小屋の方で眠りにつく。オンドルで温められた部屋は心地よい。

 朝起きて一人、山小屋の周りを散歩する。カン先生はまだ眠っているようだ。山の朝の空気は澄んでいてとても冷たい。
 突然草むらの中から犬があらわれる。朝露で体じゅうが濡れている。しっぽを振りながら私の足に抱きついてきた。そうか、カン先生が言っていたこの山で自由に生きている犬とは君のことか。君の主人はまだ眠っているよ。そう語りかける私を犬はじっと見つめてくる。 
 私はふと思う。カン先生がここに来るのは週に一度。それまで何を食べて生きているんだろう。
 犬はまだ私の顔を見つめている。

4 件のコメント:

末っ子 さんのコメント...

カン先生、本当に器の大きい方ですね。
教育に対しても確固とした信念をお持ちのようで、人間として惹かれるものがあります。

今の日本は、韓流ドラマだの、K-POPだの、新しい文化的な側面だけがメディアで取り沙汰されていて、肝心の歴史や領土の問題については普段あまり耳にしません。
日本の中学生の間でもK-POPアイドルは人気で、韓国に行ってみたいと強く思っている子もたくさんいましたが、日本との過去については全く知らないようでした。

正直、私もあまり考えたことがありませんでしたが、健父はまさに今それを肌で感じているのですね。

文化や習慣の相違点を肌で感じられるだけでも、海外に赴任できてよかったな~と思っています。
何事も経験ですね!

健父 さんのコメント...

授業でも生徒に「独島(竹島)はどちらのものだと思うか?」という質問を受けたこともあります。

天気予報でも毎日独島(竹島)の天気やライブ映像が必ずながれます。自分が日本にいたとき独島(竹島)の天気や様子を気にかけたことが一度でもあっただろうか・・・。

日本地図を黒板に書いたとき、「なぜ先生は沖縄を記さないのか」とある生徒に指摘されました。

韓流ドラマやK-POPについての日本人の反応に対してははこちらではどちらかというと冷ややかです。
文化交流というよりも外貨獲得のほうに重きがおかれているような気がします。

まぁでもそんなことを全て超越した次元から、カン先生はいつも声をかけてくれている気がします。

ひろあき兄 さんのコメント...

熱い方ですね。
お父さんと同じくらい熱い方です。

信頼しているからこそ、カン先生はあえてストレートに意見をぶつけてきたんでしょうね。

自分もNZに来て韓国の方とお会いして話したりすることが日本人に会うより多くなりました。突っ込んだことまで話しをしたことはありませんが、今度聞いてみようと思います。

健父 さんのコメント...

カン先生は確かに熱い先生です。

自分というものをしっかりと持っておりとてもタフでたくましいです。ユーモアもあるため生徒からは人気があります。

だけど自分勝手なところもあるため先生方の中には煙たがっている人もいます。
特に管理職とはいつも衝突していますので。

まぁ私から見るとわんぱくだけど憎めないトムソーヤのような感じの人です。

ところで私はここに住んでいる日本人にまだ出会っていません。街ですれちがっているんだろうけど。