今まで教員生活を送ってきて、様々な生徒に出会ってきた。そしてその中にはかなり個性の強い生徒がいて、そんな生徒と出会った時は人間というものの果てしない深淵を覗いたような気持ちになる。
韓国に来てそんな生徒の一人に出会った。電気科の3年生のT君である。昨年度までは私は彼に日本語を教えていた。
T君はとても明るい性格でいつも「初めまして、今何時ですか?」「初めまして、今日は何月何日ですか?」「初めまして、クレヨンしんちゃん好きですか?」と、私に声を掛けてくる。何度会ってもいつも「初めまして」を使ってくるので、そのことを指摘したのだが、それでも必ずいつも「初めまして」と挨拶してくる。
こっちに来て一番初めに私に声をかけてくれたのが、T君だった。
彼は電気科の中で入学時に最も成績の良かった者達が集められているクラスに在籍している。だが授業には教科書を持ってこない。そして平仮名も読めないのである。
私が授業中に彼をあてると、いつも全く答えることができない。そして周りの生徒達は「バカ、バカ、バカ。」「先生、彼はバカです。」と言ってはやし立てる。だが、T君はいっこうに気にする様子も無く、へらへらと笑っている。
彼が何故成績優秀者が集まるこのクラスに在籍しているかは謎なのだが、私はその謎を謎のままにしている。
ある時授業中、彼はおでこの上に消しゴムをのせずっと上を向いていた。私はもしかしてT君はいじめにあっているのではないかと思い、心配し注意を払っていたときだったので、すぐかけよりその消しゴムをとり机の上に戻した。そして周りの生徒を見回すとみんなニヤニヤしている。T君に視線を戻すとまた消しゴムをおでこに乗せている。周りの生徒達は「先生、ほっときましょう。」という雰囲気で、こちらを見つめる。
わからない。周りから命じられ、やらされているのか、それとも自発的にやっているのか・・・。
他の先生にそのことを話すと、「彼は変わっているからね。」と言って笑うだけである。
ある日、学校の近くの道を歩いていて、T君に出会った。
彼は制服姿で道の端に立っていた。彼は何をしていたか?・・・私は見てはいけないものを見てしまった気がした。気づかないふりをして、そのまま通り過ぎようと思ったが、足が勝手に止まってしまう。そしてT君を見入ってしまった。
彼は電柱と話をしていたのだ。とても熱心に・・・。
彼は何事かを電柱に語りかけ、微笑みながら手で撫でたりしている。そうかと思うと急に厳しい口調になり、電柱をしかりつける。そして電柱を何度も蹴る。
私は呆気にとられ、しばらく呆然と眺めてしまっていた。通り過ぎる人々も驚いてT君を見つめている。明らかに蔑んだ目で冷たく笑いながら通り過ぎる人もいる。
私はなんだかいたたまれなくなってきて、思わずT君に声をかけた。T君は振り向き私と目が合うと笑顔になり、「初めまして。元気ですか?」と日本語で言ってくる。私は韓国語で「元気だよ。T君の家はこの近くなの?」と聞くと、彼は急に空を見上げ、ククククと笑った。私も空を見上げる。真っ青な空にはいくつかの雲が流れている。T君は、今度は足下を見つめる。そして何事か奇声を発すると、背を丸め体を揺らして独特なリズムの歩き方をしながら行ってしまった。
私はずっと彼の揺れる背中を見つめていた。
私が韓国に赴任して間もない頃・・・。
まだ残暑が厳しくその日は教室にはクーラーがかかっていた。
ちょうどその時はキム先生が文法の説明をしていて、私は机間巡視しながら生徒がメモをきちんととっているか確認をしていた。
案の定、T君だけが何もしていない。教科書もノートも出ていない。筆記用具もない。そして天井を見つめている。
「T君、あれを書いて。教科書は?」と声をかけたが彼は笑顔で「オプソヨ(ありません)。」と言って首を振る。
「ノートは?」
「オプソヨ。」
「ペンはあるの?」
「オプソヨ。」
周りの生徒もキム先生も「先生、ほっときましょうよ。」という顔をして、首を振る。
T君はまた視線を天井に戻す。何故か真剣な眼差しである。
私は彼が見つめる天井を見てみた。そこには教室用の少し大きめなクーラーが取り付けられている。彼はそれをじっと見つめているのだ。瞬きもしない。送風口から出る風を見ようとしているのか、・・・わからない。
他の生徒達は黒板に書かれた文法事項をノートや教科書に書き込んでいる。T君はじっとクーラーの送風口を眺めている。そして次の瞬間、微笑んだのだ。嬉しそうに笑う。声はたてずに。そしてすぐにまた真剣な眼差しに戻る。
私はT君の側に近寄り、しゃがんでT君の目線になってクーラーを見つめてみた。T君はいったい何を見ているのか興味を持ったのだ。
T君はある一点を見つめている。視線はその一点にあり、微動だにしていないように思える。私はその「点」を探してみた。だが、何も見当たらない。天井に何があるというのだ。
私がT君と一緒になって天井を見つめているのに気づいたキム先生や生徒達から笑いがおこる。
「先生、彼はバカです。」「バカ、バカ、バカ。」とまたはやし立てる。「バカ」という日本語の発音がみんなやたらといい。いつもT君に言っているに違いない。
みんなが声を上げて笑う。
笑えばいい。今、私はT君の見つめる「点」を探すのに集中しているのだ。今、私がやるべきことはT君と一つになることなのだ。授業中だろうと関係ない。「バカ」で結構。だがこの「点」だけは今見極めたい。今しかそのチャンスがないように思えた。
彼はどんな世界を見つめて生きているのだろう。いったい彼は今何をそんなに真剣に見つめているのだ。
私はT君と一緒になってクーラーを見つめ続けた。
そしてとうとうその「点」を私は見つけた。T君は確かにそれを見つめていた。
それは、クーラーの送風口の端についている水滴であったのだ。
一滴しかないためにかなり注意しないと分からない。
その水滴が送風口からの風に揺れている。今にも吹き飛ばされそうである。だが、落ちそうで落ちない。
それはまるで、孤独なクライマーが強風の中、必死になって氷壁にしがみついているようにも見える。
そのクライマーは、そこまでの想像を絶する過酷な登攀のために疲労困憊になっている。もう氷壁にハーケンを打ち込む力は彼には残っていない。だが、その強靱な精神が彼をそこに踏みとどまらせている。
嵐はやみそうもない。
「ゆっくり休んだらいいじゃないか。眠ればいい。」と深い漆黒の谷底は誘いをかける。
休みたいと彼は思う。眠りたいと彼は思う。だがこの場所で休むことは死を意味する。眠れば永遠に目覚めることはない。手を離せば死が待っている。
嵐がやむのが先か、彼が氷壁から落ちるのが先か・・・。
何度も水滴は落ちそうになる。だがぎりぎりのところで踏みとどまる。それをT君は見つめているのだ。
私も思わず見入ってしまった。・・・なんだかものすごい世界がそこにはあった。
私がT君の肩に手を置き、水滴を指さし「見つけたぞ。」と目で語りかけると、T君は私を見返しニヤリと笑った。
文化祭の時にカラオケ大会があった。
全校生徒が体育館に集まり、我こそはと思う者が名乗りをあげて熱唱するのだ。5人の者が舞台に上がる。なんとその中にT君がいた。
T君は最後に歌うこになった。どの生徒もなるほどそれなりに歌がうまい。みんなちょっと照れていたが、全校生徒の前でスッポットライトを浴びて歌うのだ。たいした度胸である。
私はT君の番が近づくにつれ、そわそわしてきた。そして自分が歌うわけでもないのに緊張し、胸が高鳴った。
T君は舞台のそでで、じっと体育館の天井を見つめたまま立ち尽くしていた。
T君の番がまわってきた。司会者役の生徒がT君を紹介する。拍手が起こる。T君がマイクをつかむ。上を向いたままだ。イントロが流れる。どこかで聞いた曲だ。古い外国のロックだ。だが曲名は分からない。彼はおもむろに歌い始める。
T君はすごかった。圧倒的であった。
英語の歌詞は完全に彼の頭の中に入っていた。彼は目をつむりシャウトする。そしてジャンプする。腕を振り回す。舞台を走り回る。
会場からどよめきがおこる。体育館中がはじける。生徒達が声をかけ手拍子を送る。先生達も立ち上がる。矢沢永吉や忌野清志郎にも負けていない。
彼は腰を振る。独特のステップで駆け抜ける。観客を指さす。シャウト、そしてジャンプ。・・・最後は片膝をつきマイクを観客に向けてフィニッシュ。
体育館中から怒濤のような拍手が湧き起こった。体育館が揺れているのを感じた。
恥ずかしながら、私は涙を拭いながら拍手を送っていた。
審査はその後、会場からの拍手の多さで行われた。T君は圧倒的な大差で優勝。
割れんばかりの拍手の渦の中、校長先生から商品と花束をもらい、ジャンプして舞台から降り立った。
「初めまして。」・・・彼は今でも私に会うとそう声をかけてくる。
だが、3年生になってちょっと変わったことがある。それは、いつも私のことをフルネームで「~ケン」と呼び捨てにしていたのだが、「~ケン先生」と言うようになったことだ。誰かから注意でも受けたのだろうか?
「おーう。~ケン先生、初めまして。今何時ですか?」
「今?えーと1時47分。もうすぐ授業だよ。」私は必ず時計を見て正確な時間を伝えることにしている。
「あーそうですか。ありがとうございます。」彼はそう日本語で答えると、独特なステップを踏み、私から滑らかに離れていった。
彼の揺れる背中が、以前よりちょっとばかり大きく見えた。
2 件のコメント:
お久しぶりです。やまだです。
私も日本ですごくよく似た生徒がいたなぁと思いました。彼女はまさにT君のようでした。結果的に彼女なりの独特な方面へ進んでいったので、どうしてるのかなとふと考えました。
そういう私は、オーストラリアの西海岸のエクスモスというところにいます。一人旅ですが、すでに本当にたくさんの人と出会いました。インド洋に浮かぶ船の上で、ふといろいろな人の繋がりとか縁とか、なんか一言では表せない何かを感じました。地球上の1人1人が皆違う経験をしていて、それぞれに物語があって、その一つでも共感できたり共有できたら、すごく自分にとって大きなものになるような気がしました。
おしまい。
(追伸)今日、一緒に泳いだジンベエザメの写真を(自慢がてら)勝手に貼りつけてやろうと思ったのに、貼り付け方が分からない。。
どろん。
ヤマダさん、あいかわらず活動的ですね。
その行動力、私も見習いますよ。
「インド洋に浮かぶ船の上」とか「一緒に泳いだジンベエザメ」とかなんだかため息が出ます。いいですね。
私もインド洋は長く眺めていたので思い出があります。
ヤマダさんの言う「人それぞれの物語」というものの欠片を、私はこの機会に少しでも記せていけたらと思っています。
インド洋とジンベエザメのことを思いながら、冷えたビールでも飲もうと思います。
また近況を知らせてね。いい旅を。
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